吉松系図(直江系図)
一族全体宮野・田中など分家を含む。赤い継承線が種煕の四女へ至る点から、直江編纂説が提示される。
系図、墓碑、神社縁起、口承、地域史料を紹介。資料の性格と、それぞれの記録から確認できる範囲を掲載しています。
系図、墓碑、神社縁起、口伝、地域史料は、それぞれ成立時期と記録目的が異なります。資料の性格と外部史料との一致・不一致を確認し、どこまで言えるかを示します。
宮野・田中など分家を含む。赤い継承線が種煕の四女へ至る点から、直江編纂説が提示される。
東京大学史料編纂所所蔵。久米邦武採訪写本。宮野本家を中心に記す。
底本の成立時期も確定していない。
吉田定俊編。巻末に吉松種政が左座祠官として署名。家伝との相違も含めて検証対象。
当主名、没年、法名、親子関係を確認する物証。系図の空白を補う。
種徳の荒神鎮座と、最後期の大宮司・吉松駿河の名を伝える。
田中墓地の再発見、教念寺過去帳との照合過程を記録。
宮野の墓碑・口伝・現地情報を生活者の視点から保存した資料群。
吉松 道哉、吉松 隆太郎、吉松 静子らが系図解読と現地調査をまとめた2001年の刊行物。
日本書紀、朝倉町史、朝倉紀聞、筑前国続風土記、筑紫史談などと照合する。
提供された写真を、刻字確認と現地状況の参照資料として掲載します。
神社、村、用水、墓地、移住先を、関係する人物と史料に結びつけて紹介します。

系図・縁起に、吉松家の始祖伝承や大宮司職との関係が記される神社です。
中臣鎌足に結びつく創建伝承、宮野吉松家墓地、1767年銘の荒神祠が残ります。
田中吉松家が保正・庄屋を務めたとする記録があり、1953年水害後に墓地調査が行われました。
吉松種重の工事関与と吉松種煕の水車模型に関する記録があります。
系図・人物誌には、杷木・博多・大阪へ移り、医療に携わった吉松家の人物が記されています。
研究論文で関連を検討する神社
661年の朝倉橘広庭宮は『日本書紀』に記されます。一方、その後の地域史を一つの家の記録だけで連続的に説明することはできません。本サイトは、吉松家に伝わる系図を入口に、墓碑、神社縁起、地域史料、近現代の調査記録を照合し、朝倉の一地域史を検討します。
本サイトでは、宮野を起点とする吉松家と、後世に田中、杷木、博多などへ広がったと整理される家流をまとめて「朝倉吉松家」と呼びます。
成立時期、著者、伝来経路が確定していない箇所は、そのまま課題として示します。
初代から宮野・田中・博多側の系譜を記す。1668年の吉松 種政による書写記録との関係を検討します。
吉松 道哉、吉松 隆太郎、吉松 静子らによる系図解読と現地調査をまとめた2001年の刊行物。提供情報では限定200部の非売品とされます。後続研究の基礎資料として、推測箇所も含めて再検証します。
東京大学史料編纂所所蔵。宮野吉松家を中心とする記述を含みます。
『日本書紀』『朝倉風土記』『朝倉町史』『聖蹟と朝倉』、神社縁起、寺院過去帳、災害史などを参照します。後世の編纂物は、記された時代と成立した時代を分けて読みます。
吉松家の起源を661年の朝倉行幸だけで説明せず、平安期に英彦山から来た社人が朝闇神社の社事を担ったという地域史料の記述も、別の手掛かりとして紹介します。
『筑紫史談』第13集・6コマには、朝闇神社の位置がかつて豊前彦山の社領に属し、「彦山より吉松某なる社人来りて社事を掌りし頃、朝闇神社を改めたる跡」とする記述があります。
この文は、村民の伝説や『朝倉紀聞』『続風土記』を踏まえた後世の説明です。
研究論文では、661年の斉明天皇朝倉行幸に結びつく起源伝承に加え、平安期の彦山・大行事社ネットワークから社司が移った可能性を補助仮説として扱っています。二つの記憶が後世に結び付けられた可能性もあり、どちらか一方を確定起源とはしません。
今後は、英彦山の社領・大行事社関係文書、朝闇神社の由緒、地名・祭祀職の記録を照合する必要があります。
「蓋し此地、豐前彦山の社領に屬せしが、彦山より吉松某なる社人來りて社事を掌りし頃、朝闇神社を改めたる也といふ。」『筑紫史談』第13集・6コマ/提供された原文の引用
PDFは研究論文ではなく、系図・系譜史料の公開用複写です。
『吉松系譜』(東京大学史料編纂所所蔵)
東京大学史料編纂所「所蔵史料目録データベース(Hi-CAT)」公開画像
Hi-CATで原資料情報・公開画像を確認する
ここで示すのは功績の序列ではなく、現在の調査にどの資料が引き継がれたかという経過です。
古い系図を書写し直したとする欄外記録が、後世の『吉松系図』に引用されています。
現存系図を整理した人物とする説があります。
田中吉松家墓地を調査し、教念寺過去帳、墓碑、系図の記述を照合した記録を残しました。
平川 亮一の仲介や平川家に伝わった系図を含む資料をもとに共同調査を行い、『吉松家系図解読』をまとめました。
宮野墓地の見取図、墓碑銘一覧、少年期に聞いた口承を資料として残しました。口承と墓碑の読取りを分けて参照します。
墓碑、石祠、系図、地域史料を再照合し、本サイトと研究論文へ整理しています。

1994年11月11日生。宮野吉松家・吉松 弥一郎の曾孫。2000年から宮野吉松家墓石群と荒神祠に近い土地で育ち、2024年以降、家伝・墓碑・地域史料の照合を進めています。家系整理上は47代相当と位置づけていますが、古代からの代数と直系関係が歴史的に確定したことを意味しません。
とくに古代から中世前半は、後世の系図や縁起に依存する部分が大きく、「このような由緒が伝えられてきた」という水準で読む必要があります。新しい史料や研究によって、内容と系図整理は更新されます。
原則として、2000年時点で存命の方の個人情報は掲載しません。本人・権利者が公開を認めた情報、公刊資料の著者情報などは例外とします。
史料上、吉松家の人々は、時期や系統によって祭祀、村落行政、治水、医療、記録整理などに関わったとされます。それぞれの根拠と確度を分けて確認します。
系図に記された役割と、
外部史料で確認できる事項を照合する。
未確認の点は仮説として示す。
なぜその選択が必要だったのかを、朝倉・九州・日本史の変化と重ねて説明します。
分からないことを隠さず、次世代が調査を引き継げる問いとして保存します。
家伝では、吉松家の始まりを661年の祭祀と結びつけ、恵蘇八幡宮や宮野神社との関係を記します。
戦国期の系図に百官名「民部」が現れ、近世の田中吉松家には保正・庄屋を務めた記録が残ります。
田中吉松家には、新堀川工事の人員管理と水車模型に関する記録が残ります。
系図の書写、墓地調査、刊行物の作成を経て、現在は史料をデジタルで整理しています。
| 論点 | 現在の整理 | 主な根拠 | 残る課題 |
|---|---|---|---|
| 661年起源 | 家伝 | 吉松系図・吉松系譜 | 同時代史料が未確認 |
| 中臣・卜部との関係 | 仮説 | 系譜記述・通字・神社由緒 | 直接の系譜接続がない |
| 1587年の役割分化 | 分析 | 系図・後世の職掌記録 | 計画的分割かは不明 |
| 吉松種昔の父・後継関係 | 中心仮説 | 墓碑・年代・戸籍 | 養子記録と実父記録がない |
| 吉松種熙と三連水車 | 模型は墓碑記録 | 墓碑銘・地域史料 | 完成水車への影響は不明 |
家の記録だけで結論を出さず、性格の異なる資料を並べ、合う点と食い違う点を確認します。
家がどのように由緒や続柄を伝えてきたかを読む。
資料を説明する候補として提示
現資料では判断できない
卜部・中臣系の中央祭祀官僚か、朝倉で現地採用された祭祀者か、英彦山系の大行事社管理者か。
祭祀空間と古墳の関係を、考古学・地形・地域伝承から再検証する必要がある。
古代・中世部分には一次史料が乏しく、家が自らをどう理解したかという記憶史として読む必要がある。
672年説、941年頃説など、縁起・系図・周辺神社由緒の間に差異がある。
明治の神社制度再編との関係が課題。
英彦山大行事社の社人と朝倉吉松家を直接結ぶ史料はなく、同名異族の可能性も残る。
秋月氏移封に従った伝承は符合するが、朝倉系譜との接続を示す一次史料が必要。
須川に住み着いた古賀家の伝承と、甘木で家具づくりに携わった吉松世界。比良松の集いの場に残る寄贈者名から、二つの家と地域のつながりをたどります。
家伝・地域の伝承・寄贈者名・会社記録

朝倉市比良松の舒翠館(じょすいかん)は、「日本一古い公民館」とも言われる施設です。この呼称については、集会所としての始まりと、公民館として使われるようになった時期を分けて確かめる必要があります。ここでは、地域に伝わる紹介として扱います。
『吉松系図』には、古賀家の祖とされる古賀新左衛門が吉松種家を頼り、朝倉・須川に住み着いたと記されています。後の古賀氏は、触口や筆役など、地域の連絡や文書を扱う役を担ったとされます。
舒翠館の場所には新左衛門の屋敷があり、古賀家が大庄屋の世襲を終えた後、比良松地域の集会所へと生まれ変わったと伝えられます。大庄屋は、複数の村を取りまとめる役です。戦後には民営化に伴い、公民館として使われたそうです。この沿革は今回寄せられた地域の伝承に基づき、建物や運営の変遷を示す資料との照合を今後の課題としています。
吉松家の末裔のひとりで、甘木で家具屋を営んでいた吉松世界が、舒翠館の家具を寄付したという伝承があります。
家具寄贈の伝承に、現物に記された名前という具体的な手掛かりが加わりました。写真に写る寄贈者名から、館の家具すべてが世界の寄贈だとすることもできません。
展示資料で紹介した株式会社吉松木工製作所は、1946年(昭和21)に甘木町で設立された会社です。別の会社記録には、代表取締役社長・吉松世界、取締役・吉松保の名があり、宮野吉松家では二人を宮野から出た兄弟と伝えています。広告では、保は「支配人」として掲げられています。
広告に並ぶのは家具、官庁・店舗設備、室内装飾、婚礼用の調度品です。甘木四日町と杷木の支店も記され、暮らしや地域の施設で使う木製品を手がけていたことがうかがえます。広告の掲載媒体・年月は確認中です。
1949年刊『福岡地方勞働委員會三年誌』には、同社の1947年の労働争議と、9月17日の和解が記されています。争議を廃業の原因とすることはできません。
古賀家が吉松家を頼って須川に住み着いたという系図の記述と、舒翠館に残る吉松世界の寄贈者名。時代も資料の性格も異なりますが、吉松家の歴史を、神社や村役だけでなく、家具づくりと地域の集いの場から考える手掛かりになります。
出典・参照:『吉松系図』の古賀氏関係記事/舒翠館の沿革・家具寄贈の伝承と寄贈者名の坂田拓也からの情報提供・寄贈者名の写真(2026年10月7日受領。
展示会「朝倉宮の、その先へ。」で作成したコラム・調査冊子から、既存の解説を補う論点をまとめました。各項目を開くと、記録・伝承・仮説の違いと出典を読めます。
引用方法
研究・地域資料・記事で紹介する際の基本形です。個別の記述を引用する場合は、見出しのリンクもあわせて記録してください。
坂田拓也「朝倉吉松家 歴史アーカイブ」Version 1.4、2026年、https://yoshimatsuhistorysite.vercel.app/、閲覧日:YYYY年MM月DD日。