中心資料 01
吉松系図(直江系図)

吉松系図(直江系図)の人物記事・受領分割画像5を画像で開く・拡大表示
博多吉松家に伝わる系図で、宮野・田中などの分家を含む一族のつながりと、各人物の事績が記されています。朱線で強調された継承の流れも特徴です。
吉松家の家伝、史料、墓碑と地域の記録を年代順に掲載。記録・物証・家伝・仮説の区分と検討事項を確認できます。
02
調査概要
調査の中心に置いたのは、『吉松系図』と『吉松系譜』です。二つの資料に記された人物・続柄・役職・年代を読み比べ、地域に残る物証や記録と照らし合わせています。
中心資料 01

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博多吉松家に伝わる系図で、宮野・田中などの分家を含む一族のつながりと、各人物の事績が記されています。朱線で強調された継承の流れも特徴です。
中心資料 02

東京大学史料編纂所所蔵の写本で、宮野吉松家を中心とする人物記事を伝えます。巻末には採訪・謄写の注記があります。
系図・系譜の人物、続柄、役職、年代を読み比べる
石祠・墓碑・神社の記録から、人物や活動を確かめる
聞き取りと先人のメモを重ね、日本史・地域史と照らす
物証・記録との照合
宮野周辺の石祠や墓碑の銘文を、系図・系譜や神社の記録と照合しました。
秋月氏から「種」の字を授かったという由来は、系図だけでなく『恵蘇八幡宮御縁起』にも記されています。
聞き取り・時代考証
さらに、地域での聞き取り、吉松義典ら先人の調査メモ、『吉松家系図解読』、地域史の記録を参照しました。日本史・地域史の中で、当時の制度や神社の役割、人物の年代に無理がないかを検討しています。
年表では二つの資料の原文と現代語の説明を併記しています。画像の赤枠は引用箇所を示す編集上の補助で、原本の朱線とは別です。
家伝・史料と地域の歩み
03
時代背景遠隔地の土器や支石墓、平塚川添遺跡などから、朝倉は古くから外部世界と接続する政治・物流拠点だったと捉える。
主な根拠:平塚川添遺跡などの考古資料・地域史家伝・史料と地域の歩み
04
家伝・伝承家伝では、斉明天皇の百済救援に伴い定家が祭祀を担い、恵蘇八幡宮の祠官となったとされる。
主な根拠:『吉松系図』『吉松系譜』(家伝)吉松系図(直江系図) · 原文
吉松氏元祖 卜部定澄五世的傳 定家
現代語で読む系図は定家を吉松氏の始祖とし、卜部定澄の五代目の伝承者と記しています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像5
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吉松系図(直江系図) · 原文
因之令定家爲司官 白雉九年始而在祭祀 恵蘇八幡宮兼宮野神社等
現代語で読む定家を司官に任じ、恵蘇八幡宮と宮野神社などの祭祀を始めた、と記されています。
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吉松系図(直江系図) · 原文
勅帝而日待異国降伏之吉候云云
現代語で読む異国降伏の吉い知らせを待つ、という天皇の言葉を伝える一節です。
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吉松系図(直江系図) · 原文
朝倉總大宮司也 麻氏布神社春日山王三所大明神共預祭儀
現代語で読む朝倉の総大宮司で、麻氏布神社・春日山王・三所大明神の祭儀も預かった、と記されています。
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01 / 06
斉明天皇の行幸と吉松定家
系図に記された言葉
因之令定家爲司官
そのため、定家を司官に任じた、と記されています。
系図は、吉松定家が朝倉で祭祀を始め、宮野に住んだと記します。
遺跡登録・地域伝承・仮説
展示コラムでは、宮野神社境内の遺構を、遺跡登録名「中宮野神社内古墳」と地域の「藤原氏の祖先の墓」という伝承に分けて紹介しました。
縁起・墓碑に見える「吉松修理藤原種政」「吉松民部少輔藤原種吉四代孫」は、後世の吉松家が藤原の名を併記した手掛かりです。初代・定家の宮野居住という家伝と重ねて古墳を考えることはできますが、定家の墓という見方は仮説であり、別人の墓や後世に伝承が重なった可能性も残ります。
出典・参照:展示コラム第1頁「宮野神社の古墳の謎」/参照:遺跡登録、『吉松系図』『吉松系譜』、縁起・墓碑。
外部記録・後世の由緒・仮説
麻氐良布神社は877年の『日本三代実録』と『延喜式』神名帳に名が見える社です。一方、別所神社の「斉明天皇七年(661)創立」は、後世の『福岡県神社誌』に伝わる由緒です。
展示では、宮野を拠点とする神職が山上の祭祀に関わり、往来しやすい須川に祭祀の場を設けた、または既存の社を整えた可能性を検討しました。須川の既存の社が後世に朝倉宮伝承と結びついた可能性もあります。由緒の「朝倉社」がどの社を指すか、祭神の違い、道筋と祭儀の記録を照合する必要があります。
出典・参照:展示コラム第3頁「別所神社と麻氐良布神社」/参照:『日本三代実録』『延喜式』『福岡県神社誌』『吉松系譜』。
福岡県朝倉市と高知市朝倉は地名、越前一乗谷の朝倉は大名家の名字です。同じ表記でも、共通の由来や移住を示すとは限りません。
一乗谷の神職・卜部定澄には、1554年に書写した『中臣祓』の奥書や銘のある刀という手掛かりがあります。
高知の城郭・発掘調査報告には、秦泉寺城や万々城に関わる吉松氏が登場します。
出典・参照:展示コラム第5頁「不思議な『朝倉』」/参照:『中臣祓』奥書、定澄銘の刀、『高知市の城跡』『西本城跡』『小浜城跡』。
吉松系譜 · 原文
齊明天皇幸筑紫之時 白雉九年初而恵蘇八幡宮并宮野社春日山王御建立
現代語で読む斉明天皇が筑紫へ赴いた時、白雉九年に恵蘇八幡宮と宮野社・春日山王を建立した、と記されています。
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吉松系譜 · 原文
宮野社春日山王御建立 其時定家蒙勅爲朝倉總大宮司 麻氐良布神社共預祭儀
現代語で読む神社の建立に際して定家が朝倉の総大宮司となり、麻氐良布神社の祭儀も預かった、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系譜の分割画像10
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家伝・史料と地域の歩み
05
時代背景663年の白村江の戦いの後、北部九州では水城・大野城の築造や防人の配置が進みました。
主な根拠:『日本書紀』家伝・史料と地域の歩み
06
時代背景新たに開墾した土地の私有を認める制度が始まり、土地支配のあり方が変化しました。
主な根拠:墾田永年私財法と地域史家伝・史料と地域の歩み
07
家伝・伝承系図には、大蔵春実が恵蘇八幡宮を崇敬し、第10代・吉松定政が神社に関係する土地「免上地」七百余町の寄進を受けたとあります。
主な根拠:『吉松系図』『吉松系譜』(家伝)吉松系図(直江系図) · 原文
自始祖定家至定政十嗣也
現代語で読む始祖定家から定政までは十代、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像6
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直江系図・分割画像06の該当部分:第10代・吉松定政を画像で開く・拡大表示
吉松系図(直江系図) · 原文
所寄符免上之地都合七百余町也 亦奉合祭於宮野神社老松大明神号老松三社大明神
現代語で読む免上の地を合わせて七百余町寄付し、宮野神社にも老松大明神をまつった、と記されています。
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恵蘇八幡宮と吉松家
系図に記された言葉
所寄符免上之地都合七百余町也
免上の地、合わせて七百余町を寄付した、と記されています。
系図には、吉松家が恵蘇八幡宮の大宮司を務めたとあります。また、九州へ下向して筑前一帯を荘園として開発したとされる大蔵春実から、朝倉郷を恵蘇八幡宮の「神領」として寄進され、吉松家が朝倉郷長となったと記します。
吉松系譜 · 原文
七百餘町田寄付 總大宮司兼朝倉郷長定政
現代語で読む七百余町の田を寄付し、定政が総大宮司と朝倉郷長を兼ねた、と記されています。
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吉松系譜 · 原文
三帝合殿而依爲祈願所朝倉郷
現代語で読む三帝を合殿にまつり、朝倉郷の祈願所とした、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系譜の分割画像11
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家伝・史料と地域の歩み
08
分析源平合戦後、原田氏の勢力が後退し、朝倉の家伝には秋月氏・星野氏との関係が記されています。吉松家と両氏の関係は、主に後世の系図・地域史料から検討します。
主な根拠:地域史・系図記述(分析)家伝・史料と地域の歩み
09
家伝・伝承系図では、秋月種照の子・吉松定助が「種」の字を受け、吉松種助へ改名したとされる。
主な根拠:『吉松系図』『恵蘇八幡宮御縁起』吉松系図(直江系図) · 原文
定元 生一女嫁秋月城主中務大輔種照而生一男定助也後称種助
現代語で読む定元の娘が秋月種照に嫁ぎ、定助を生み、後に種助と呼ばれた、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像6
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直江系図・分割画像06の該当部分:第26代・吉松定元を画像で開く・拡大表示
吉松系図(直江系図) · 原文
継外祖定元之家
現代語で読む母方の祖父である定元の家を継いだ、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像7
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直江系図・分割画像07の該当部分:第27代・吉松種助を画像で開く・拡大表示
吉松系図(直江系図) · 原文
当寛正四年而秋月中務大輔種照下賜干祠官定助種字即改定助而称種助自此当流以種字為通別之字
現代語で読む寛正四年に種照から「種」の字を与えられ、定助から種助に改名し、以後この字を家の通字とした、と記されています。
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秋月氏との婚姻・養子
系図に記された言葉
継外祖定元之家
母方の祖父・定元の家を継いだ、と記されています。
系図では、吉松定元の娘が秋月種照に嫁ぎ、その次男・定助が吉松家の養子になったとされます。その後、名前に秋月氏と共通する「種」の字が使われます。

吉松系譜 · 原文
秋月中務大輔種照二男也 母朝倉總大宮司自大藏朝臣定家二十六世式部大輔定元
現代語で読む秋月種照の次男で、母は定元の家につながる、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系譜の分割画像9
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吉松系譜 · 原文
一子生一男種助 外祖定元之繼家
現代語で読む一人の子として種助が生まれ、母方の祖父・定元の家を継いだ、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系譜の分割画像10
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家伝・史料と地域の歩み
10
家伝・伝承家伝では、古賀新左衛門が吉松種家を頼って須川に住み、その後、古賀氏が領主と村をつなぐ触口や文書を担う筆役などに就いたとされます。
主な根拠:家伝・地域史吉松系図(直江系図) · 原文
当天正之項而自御笠郡唐古賀新左衛門云者漂白之砌来干須川邑住
現代語で読む天正の頃、御笠郡から古賀新左衛門という人が来て須川村に住んだ、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像8
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直江系図・分割画像08の該当部分:第32代・吉松種良の記事(抜粋)を画像で開く・拡大表示
吉松系図(直江系図) · 原文
頼寄民部種良地 此故自種良使古新致朝倉郷触口
現代語で読む民部種良を頼って寄留し、種良が古賀新左衛門を朝倉郷の触口にした、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像8
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家伝・史料と地域の歩み
11
分析『吉松系図』では、吉松種家の代から通称に「民部」が使われます。
主な根拠:『吉松系図』(百官名記載)吉松系図(直江系図) · 原文
民部 種家
現代語で読む種家には「民部」という通称が添えられています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像7
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直江系図・分割画像07の該当部分:第31代・吉松種家を画像で開く・拡大表示
移封史・由緒・仮説
串間の吉松氏には、1587年の秋月氏移封に伴って筑前から移ったという由緒が伝わります。展示コラムは、串間側の由緒と、朝倉側の種家の没年・没地・当時の動向が系譜に記されていないことを、別の資料として並べました。
すでに没していた、隠居した、記事が省略された、別の吉松氏が移った可能性も残ります。
出典・参照:展示コラム第6頁「宮崎県の吉松氏」/参照:串間市の由緒・住宅案内、『吉松系譜』。
吉松系譜 · 原文
種家 民部
現代語で読む種家の名に「民部」という通称が添えられています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系譜の分割画像11
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家伝・史料と地域の歩み
12
分析1587年の秋月氏移封と太閤検地の前後に、吉松家の一部は宮野に残り、別の一部は筑後川沿いの田中へ移ったと系図は伝えます。後世の記録では、宮野に残った系統は祭祀、田中へ移った系統は村役を担っています。
主な根拠:系図・地域史(分析)吉松系図(直江系図) · 原文
弟譲干種栄宮野神社司官 譲于嫡子種仲田中邑之農長
現代語で読む弟の種栄に宮野神社の司官を、嫡子の種仲に田中村の農長を譲った、と記されています。
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直江系図・分割画像08の該当部分:第32代・吉松種良を画像で開く・拡大表示
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宮野吉松家と田中吉松家に分かれる
系図に記された言葉
弟譲干種栄宮野神社司官 譲于嫡子種仲田中邑之農長
弟の種栄に宮野神社の司官を、嫡子の種仲に田中村の農長を譲った、と記されています。
秋月氏が日向国へ移された1587年前後に、吉松家の一部は宮野に残り、別の一部は筑後川沿いの田中へ移ったと系図は伝えます。後世の記録では、宮野の系統は祭祀、田中の系統は村役を担っています。
吉松系譜 · 原文
種良 民部 法号劉雲院正誉良覺居士
現代語で読む種良には民部の通称と、劉雲院正誉良覺居士という法号が記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系譜の分割画像12
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村役の継承
13
吉松系図(直江系図) · 原文
種仲 字与三右衛門宮野鳥集院田中三村保正也兼郷長
現代語で読む種仲は与三右衛門と呼ばれ、宮野・鳥集院・田中の三村の保正を務め、郷長も兼ねた、と記されています。
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直江系図・分割画像09の該当部分:吉松種仲を画像で開く・拡大表示
吉松系譜 · 原文
字与三右エ門 宮野鳥集院田中三村保正兼郷代官
現代語で読む与三右衛門と呼ばれ、宮野・鳥集院・田中の三村の保正と郷代官を兼ねた、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系譜の分割画像12
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村役の継承
14
吉松系図(直江系図) · 原文
種栄 式部 宮野邑神職家種良之祐子継 種家之二男也
現代語で読む種栄は宮野村の神職の家を継ぎ、種家の次男であると記されています。
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吉松系譜 · 原文
實種家二男也 種良之祐子
現代語で読む実は種家の次男で、種良の「祐子」と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系譜の分割画像13
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村役の継承
15
吉松系図(直江系図) · 原文
種嗣 字弥左衛門 依種仲短命跡役宮野鳥集院保正勤 妻者古賀八郎右衛門娘也
現代語で読む種嗣は種仲が短命だったため宮野・鳥集院の保正を継ぎ、妻は古賀八郎右衛門の娘と記されています。
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吉松系譜 · 原文
字弥左エ門 種仲短命跡役
現代語で読む弥左衛門と呼ばれ、種仲が短命だった後の役を継いだ、と記されています。
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村役の継承
16
吉松系図(直江系図) · 原文
種友 宮野鳥集院庄屋 字清兵衛 此時為讒者被防 而筑後国身退故家滅跡役古賀喜七来而同家勤
現代語で読む種友は宮野・鳥集院の庄屋で、讒言を受けて筑後へ退き、跡の役は古賀喜七が務めた、と記されています。
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村役の継承
17
吉松系図(直江系図) · 原文
種治 字与三右衛門後又吉号田中村保正妻者上寺邑大熊氏女
現代語で読む種治は与三右衛門、後に又吉と呼ばれた田中村の保正で、妻は上寺村の大熊氏の娘と記されています。
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村役の継承
18
吉松系図(直江系図) · 原文
種貞 字市兵衛田中邑保正妻者長渕邑古賀又三郎女後妻者秋月丹下氏之女
現代語で読む種貞は市兵衛と呼ばれた田中村の保正で、妻は長渕村の古賀又三郎の娘、後妻は秋月の丹下氏の娘と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像11
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村役の継承
19
吉松系図(直江系図) · 原文
種義 字勘右衛門田中邑保正
現代語で読む種義は勘右衛門と呼ばれ、田中村の保正を務めたと記されています。
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村役の継承
20
吉松系図(直江系図) · 原文
久作田中邑庄屋継後譲種重同郡福井宝珠山鼓三箇邑成庄屋
現代語で読む久作が田中村の庄屋を継ぎ、後に種重に譲り、福井・宝珠山・鼓の三村の庄屋になった、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像11
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家伝・史料と地域の歩み
21
記録後世の『吉松系図』の欄外には、吉松種政が1668年に古い系図を書き写したとする記録があります。
主な根拠:『吉松系図』欄外記録吉松系図(直江系図) · 原文
此時古系図依虫喰朽種政写改之 寛文之項戊申年也
現代語で読む古い系図が虫食いで朽ちていたため、種政が書き写し直した。寛文の戊申年のこと、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像10
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直江系図・分割画像10の該当部分:宮野吉松家・吉松種政を画像で開く・拡大表示

家伝・史料と地域の歩み
22
記録吉田定俊が編纂した『恵蘇八幡宮御縁起』の末尾に、吉松種政が左座祠官として署名しています。系図と縁起で異なる記述があるため、成立過程の比較が必要です。
主な根拠:『恵蘇八幡宮御縁起』下巻
吉松系譜 · 原文
元禄八年十月二十七日
現代語で読む元禄八年十月二十七日という日付が記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系譜の分割画像13
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家伝・史料と地域の歩み
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記録大庄屋・古賀仁右衛門高重が、朝倉地域の地誌『朝倉紀聞』を編纂した。朝倉宮伝承や地域の神社・地名を検討する際に参照される史料の一つである。
主な根拠:国立国会図書館サーチ地域史料の読み方
表記が似ていても、同じ社かどうかは、地名・位置・祭神を照合して判断します。
直江系図の抜粋も、人物志に見える直江の医業と、直江が系図をまとめたという推定を分けて扱います。展示資料を読む際は、資料に書かれた年代と、資料そのものが作られた年代を区別します。
出典・参照:展示補助カード第3・5〜10頁/『吉松家系図解読』展示用簡易再編版、第5章。
家伝・史料と地域の歩み
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家伝・伝承『吉松系図』には、田中村庄屋・吉松種重が「井手所御仕調」として工事の人員・労務管理に関わったと記される。
主な根拠:『吉松系図』吉松系図(直江系図) · 原文
種重 字大作田中邑庄屋妻者宮野邑古賀武左衛門女
現代語で読む種重は大作と呼ばれた田中村の庄屋で、妻は宮野村の古賀武左衛門の娘と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像11
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吉松系図(直江系図) · 原文
其頃山田邑井手所御仕調最中也 依之大川筋蒙三庄屋役数年凝肺肝雖相勤不幸行年三十七歳而卒去
現代語で読む山田村の井手の工事の最中、川筋の三庄屋役を仰せつかり、数年力を尽くして勤めたが、三十七歳で亡くなった、と記されています。
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直江系図・分割画像11の該当部分:田中系・吉松種重を画像で開く・拡大表示
吉松系図(直江系図) · 原文
種存 字大吉田中邑庄屋後改名伝七
現代語で読む種存は大吉と呼ばれた田中村の庄屋で、後に伝七と改名した、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像11
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直江系図・分割画像11の該当部分:田中本家・吉松種存を画像で開く・拡大表示
地域史・家伝・口伝
川から水を引く堀川用水と、川面より高い田へ水を上げる水車は、異なる役割を担います。
宮野の立野には「三日三晩祈祷した」という雨乞いの伝承があります。祈祷の時期・記録、伝承上の社の正確な呼称、吉松家が主宰したかどうかは調査中です。田中の水利と宮野の祭祀を、同じ水不足に向き合う別々の営みとして考えます。
出典・参照:展示コラム第4頁「水不足の朝倉と吉松家」/参照:堀川用水史、『吉松系図』、種煕墓碑銘、立野の地域伝承。
家伝・史料と地域の歩み
25
物証宮野の屋敷に種徳が荒神を鎮座。石祠の刻字は、2024年以降の調査で参照された物証の一つです。
主な根拠:宮野の荒神祠刻字2026年7月15日提供の更新版に基づき、宮野本家の世代・氏名・備考を一覧化しました。
| 世代 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|
| 初代 | 吉松 定家 | 朝廷で神祇官として中臣氏に仕えた卜部定家だった可能性がある。 |
| 2代 | 吉松 定明 | — |
| 3代 | 吉松 定秀 | — |
| 4代 | 吉松 定友 | — |
| 5代 | 吉松 定實 | — |
| 6代 | 吉松 定則 | — |
| 7代 | 吉松 定義 | — |
| 8代 | 吉松 定満 | — |
| 9代 | 吉松 定信 | — |
| 10代 | 吉松 定政 | 大蔵春実から免上地の寄進を受け、朝倉郷長となったとする記述。 斉明天皇・天智天皇による恵蘇八幡宮合祭と、老松三所大明神の合祭に関する記述。 |
| 11代 | 吉松 定利 | — |
| 12代 | 吉松 定栄 | — |
| 13代 | 吉松 定次 | — |
| 14代 | 吉松 定経 | — |
| 15代 | 吉松 定代 | — |
| 16代 | 吉松 定宜 | — |
| 17代 | 吉松 定房 | — |
| 18代 | 吉松 定方 | — |
| 19代 | 吉松 定光 | — |
| 20代 | 吉松 定雄 | — |
| 21代 | 吉松 定延 | — |
| 22代 | 吉松 定連 | — |
| 23代 | 吉松 定道 | — |
| 24代 | 吉松 定以 | — |
| 25代 | 吉松 定生 | — |
| 26代 | 吉松 定元 | 娘が秋月種照と婚姻したとする系図上の記述。 |
| 27代 | 吉松 種助 | 秋月種照の次男が養子として吉松家に入ったとする。 本姓は定助で、後に種助へ改名。 官名:式部 |
| 28代 | 吉松 種氏 | 官名:式部 |
| 29代 | 吉松 種義 | 官名:式部 |
| 30代 | 吉松 種秀 | 官名:式部 |
| 31代 | 吉松 種家 | 官名:民部 古賀新左衛門を須川に受け入れた可能性がある。 秋月氏の宮崎移封に従い、子・種良を残して秋月へ移住した可能性がある。 |
| 32代 | 吉松 種良 | 官名:民部 1587年の豊臣秀吉による九州平定期、朝倉の支配構造が変わるなかで家の対応を担ったとする整理。 弟・種栄に宮野村で宮野神社の宮司職を残し、種良自身は子・種仲を連れて田中村へ移住したとする。 |
| 33代 | 吉松 種栄 | 種家の次男だが、兄・種良の猶子だった形跡があるため、実質33代と評価する。 官名:式部 |
| 34代 | 吉松 種定 | 官名:式部仁左エ門 福岡藩の免方役として吉松家を外れ、福岡へ移住したとみられる。 |
| 34代中継 | 吉松 種経 | 官名:左次兵衛 種定の弟と評価する。種定が福岡へ移住し、子・種政が幼かったため、種経が中継として35代を担ったとする整理。 |
| 35代 | 吉松 種政 | 官名:修理 種定の嫡男。 |
| 36代 | 吉松 種次 | 官名:但馬 |
| 37代 | 吉松 種生 | 官名:壱岐 |
| 38代 | 吉松 種晟 | 官名:主殿 明和4年(1767年)没。墓石の刻字で確認できる。没年は子・種徳による荒神鎮座(同年)と一致し、家督継承と荒神鎮座が連動した可能性がある。 |
| 39代 | 吉松 種徳 | 官名:但馬 墓石には「吉松定恒」とあり、晩年は定恒を名乗った可能性がある。 明和4年(1767年)、中宮野で荒神を鎮座したとする。 |
| 40代 | 吉松 種一 | 官名:但馬 男子がおらず、いとこの種昔を養子として受け入れた可能性がある。 |
| 41代 | 吉松 種昔 | 官名:但馬 1777年生、1847年没。種一に子がなかったため、本流後継候補として養子に入った可能性がある。 血縁上は林作の子候補(有力仮説)で、系図上は種一の養子・後継候補として本流に位置づける。 |
| 42代候補 | 吉松◯◯(氏名不明) | 官名:駿河 文献上で存在を確認。種昔の子候補。1853年(嘉永6年)の朝闇神社石祠に「大宮司 吉松駿河正」の名が刻まれる。 墓石は未確認。神職廃止に伴う社会変動のなかで宮野を離れた可能性がある。 |
| 43代候補 | 吉松◯◯(氏名不明) | 官名:但馬 文献上で存在を確認。種昔の孫候補・駿河の子候補。1864年(元治元年)の香椎宮奉幣使行列参加記録に「吉松駿河」「吉松但馬」の名が確認される。 墓石は未確認。 |
※「可能性」「候補」「とする」は、現時点の系図整理・仮説を示します。続柄・代数・移住経緯は、今後の史料確認で更新される可能性があります。
吉松系譜 · 原文
元文元丙辰年ヨリ吉田神道ニ成ル
現代語で読む元文元年から吉田神道となる、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系譜の分割画像14
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家伝・史料と地域の歩み
家伝・史料と地域の歩み
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仮説現存する『吉松系図』の継承線が、吉松種煕の四女・吉松直江へつながる描き方になっていることなどから、直江が系図を整理した可能性があります。
主な根拠:『吉松系図』の朱線・記載範囲(仮説)吉松系図(直江系図) · 原文
四女也 福岡住
現代語で読む四女で、福岡に住む、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像12
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家伝・史料と地域の歩み
家伝・史料と地域の歩み
29
物証吉松種煕が73歳で没した。墓碑銘には、水車模型を郡役所へ提出したことと、没後に家へ金一封が下されたことが記されている。
主な根拠:吉松種煕墓碑銘吉松系図(直江系図) · 原文
種煕 字大作 生四男三女
現代語で読む種煕は大作と呼ばれ、四男三女が生まれた、と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像12
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家伝・史料と地域の歩み
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物証1853年の朝闇神社石祠に「大宮司 吉松駿河正」の名が見え、幕末の記録には駿河・但馬の名が現れます。1933年の『聖蹟と朝倉』は二人を親子とし、宮野の世襲神職の最後に位置づけています。幕末の在名と、後世の親子関係の記述は分けて読みます。
「駿河」「但馬」は百官名と呼ばれる通称です。その名に対応する墓が特定できないことは、墓や一族が消滅したことを意味しません。実名で記録された、移住した、墓碑が失われたなどの可能性が残ります。1870〜1871年の制度変更だけで離職・移住の理由を決めず、過去帳・位牌・戸籍・神社文書で通称と実名をつなぐことが次の課題です。
出典・参照:展示コラム第2頁「消えた最後の親子」/参照:朝闇神社石祠、香椎宮奉幣使関係記録、『聖蹟と朝倉』。
家伝・史料と地域の歩み
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時代背景明治政府は受領名・官名の使用を禁じた。吉松駿河・吉松但馬の実名やその後の動向を直接示すものではない。
主な根拠:明治初期の制度改革(論文参照)家伝・史料と地域の歩み
家伝・史料と地域の歩み
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分析系図・戸籍・人物誌には、杷木や博多などへ移った吉松直江、吉松春渚、吉松景山、吉松知太郎、吉松重實らが医療に携わったと記されています。
主な根拠:戸籍・人物誌・系図05 / 06
系図書写、村役、水利、医療
系図に記された言葉
其頃山田邑井手所御仕調最中也
その頃、山田村の井手の工事の最中であった、と記されています。
吉松種政の系図書写、吉松種重の工事管理、吉松種熙の水車模型、吉松直江・吉松春渚らの医療活動が記録されています。明治期に入ると、宮野吉松家は神職を終え、田中吉松家は杷木へ移住して医業を開業し、時代の変化に合わせて地域での役割を変えました。
家族の記録・人物比定
展示用『吉松家系図解読』簡易再編版では、鶴鳴・春渚に医業や書画・音楽に関する家伝があることを紹介しています。
仙厓との交流を春渚に確定して結びつけず、人物名・生没年・家族の記録を照合する必要があります。
出典・参照:『吉松家系図解読』展示用簡易再編版、第6章「田中から博多へ」・冒頭の編集方針。
吉松系譜 · 原文
宮野神主吉松氏家系寫
現代語で読む宮野の神主・吉松氏の家系の写し、という内題です。
赤枠:引用箇所 · 吉松系譜の分割画像2
画像を押すと拡大できます。 分割画像全体を見る
写本注記・回想
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写本注記・回想・推定
展示用『吉松家系図解読』簡易再編版は、「大蔵姓系譜」の伝来を、直江による整理の可能性、平川家での保管、昭和初期の筆写、千代から隆太郎への継承として整理しています。
信行自身の写本注記は1932年夏の筆写を記しますが、原著の別の箇所には1935年頃という記述もあり、年次は一致していません。隆太郎が1940年に母・千代から巻物を見せられたという回想、1999年の裏打ち・芯棒交換の記録は、資料が保存され読み継がれた過程を伝えます。
出典・参照:『吉松家系図解読』展示用簡易再編版、第2章・第5章(2026年8月)。原著の回想・写本注記をもとにした再整理。
会社記録・家伝
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広告・行政記録・家伝
展示資料では、1946年に甘木町で設立された吉松木工製作所を紹介しました。会社記録には吉松世界・吉松保の名があり、広告には保が「支配人」として記されます。家具に加え、官庁・店舗設備、室内装飾、婚礼用調度品、甘木四日町と杷木の支店を掲げています。広告の掲載媒体・年月は確認中です。
1949年刊『福岡地方勞働委員會三年誌』には、1947年の覚書、賃金や採用・退職金などをめぐる争議、同年9月17日の和解が記されています。当時の労働関係を知る行政記録であり、編者の評価を経営者個人の人格評価として扱いません。
世界と保が宮野から出た兄弟だったこと、公民館などへの机の寄付、約10年で事業を終えたことは家伝です。会社登記、新聞、寄贈記録との照合が課題です。
出典・参照:展示コラム第7頁「吉松木工製作所」/参照:広告2点、『福岡地方勞働委員會三年誌―昭和二十一年〜昭和二十三年度』(1949年)、家伝。
家伝・史料と地域の歩み
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物証田中地区の吉松家墓地が流失・埋没し、一部の墓碑情報が失われた。
主な根拠:災害記録・田中吉松家墓地調査資料家伝・史料と地域の歩み
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記録過去帳と墓碑を照合し、『釈浄玄』『種方』などの刻字を確認。『吉松家先祖之墓地発見記』へ記録した。
主な根拠:『吉松家先祖之墓地発見記』吉松系図(直江系図) · 原文
種方 字恵作(後登平)田中邑庄屋
現代語で読む種方は恵作、後に登平と呼ばれた田中村の庄屋と記されています。
赤枠:引用箇所 · 吉松系図(直江系図)の分割画像11
画像を押すと拡大できます。 分割画像全体を見る
赤枠は画像内で確認できる「種方・字恵作」の部分。引用全文を囲んだものではありません。
直江系図・分割画像11の該当部分:田中本家・吉松種方を画像で開く・拡大表示
06 / 06
水害後の墓地調査と記録整理
記録継承を示す参考句
此時古系図依虫喰朽種政写改之
古い系図が虫食いで朽ちていたため、種政が書き写し直した、と記されています。
西日本大水害後、吉松義典、吉松道哉、吉松隆太郎らが墓地・系図を調査しました。2024年以降は墓碑・石祠・地域史料を再照合しています。
調査体験記・回想
吉松義典の『吉松家先祖之墓地発見記』は、1955年に教念寺の過去帳、田中の墓石、系図を照合し、同年9月に供養を行った経過を記します。田中と杷木の墓や寺の移動に関する説明にも、義典の推定が含まれます。
『吉松家系図解読』簡易再編版には、1996年の宮野訪問、1997〜1998年に杷木側と博多側の調査がつながった経過、1999年の朝倉調査、2001年の刊行がまとめられています。隆太郎・道哉を中心に、静子や読み下しの協力者、寺社・地域の人々が資料整理を支えた共同調査でした。
出典・参照:『吉松家先祖之墓地発見記』展示用8頁冊子/『吉松家系図解読』展示用簡易再編版、第7章。
見取図の記載年
家伝・史料と地域の歩み
家伝・史料と地域の歩み
口承・調査資料
家伝・史料と地域の歩み
年表を読んだあとに
43
年表では、史料に記された内容と、それにもとづく仮説の流れを説明しました。ここでは、確かめる必要がある年代・続柄・役名・字形などをまとめます。各見出しから対応する年表へ戻れます。
家伝・後世の系図に記された内容と、同時代史料で確認できる事実は区別して検討します。画像の番号は今回受領した分割順で、原本の頁番号ではありません。
この年表は、史料と家伝にもとづく仮説をたどります。検討事項・未確定事項は最後にまとめています。
「確認」は外部史料・墓碑などで人物や出来事を確認できるもの。「家伝」は後世の系図や縁起に記されたものです。
漢文は提供された『吉松家家系図 解説』の漢文欄から抜粋しています。系図原本との校合は未了です。字形は提供資料に従い、説明と家伝・未確認事項は分けて示します。
系図では、もとは宮野を拠点とした吉松家の一部が1587年前後に田中へ移り、その後、田中の系統から杷木・博多などへ移った家があったと整理されています。宮野に残った側にも、吉松林作に続くと考えられる別系統があります。本サイトではこれらをまとめて「朝倉吉松家」と呼びます。「本家」「分家」は資料整理上の呼び方で、現在の家族間の上下関係を示すものではありません。
吉松和作から吉松和助・吉松倉吉への関係は戸籍・墓碑で確認できます。吉松林作との接続は作業仮説です。
博多吉松家に伝わる系図で、宮野・田中などの分家を含む一族のつながりと、各人物の事績が記されています。朱線で強調された継承の流れも特徴です。吉松直江が江戸後期にまとめたと推定していますが、編者と成立年代は確定していません。
東京大学史料編纂所所蔵の写本で、宮野吉松家を中心とする人物記事を伝えます。巻末には採訪・謄写の注記があります。写本が作られた時期と、もとの記録が成立した時期は分けて考え、原本の著者は未確定として扱っています。
宮野周辺の石祠や墓碑の銘文を、系図・系譜や神社の記録と照合しました。江戸時代以降の人物について、実在や神官としての活動、名前に「種」の字を用いていたことを、確認できる人物・記録ごとに確かめています。
秋月氏から「種」の字を授かったという由来は、系図だけでなく『恵蘇八幡宮御縁起』にも記されています。ただし、「種」の字を使っていたことと、その授与の年代・事情がすべて確定することは区別しています。
こうした照合で裏付けられること、家や地域に伝わること、なお推定にとどまることを分けて年表に示しています。近世の人物を確認できても、古代までの系譜全体が証明されたことにはなりません。
年表は「確定した出来事」だけではなく、家伝・物証・分析・仮説をラベルで区別しています。
系図の由緒です。卜部氏との直接の系譜接続を確認する同時代史料は未確認です。
原文の「白雉九年」は暦の整合性に問題があります。斉明天皇の朝倉滞在の記録と、定家の活動を伝える家伝を区別します。
「吉松」の氏の由来を説明する家伝の一節です。「日」などの字形は受領解説に従い、原本との校合は未了です。
家伝に記された祭祀の範囲です。同時代の実際の職掌や、各社の比定を確定するものではありません。
祭祀を担ったとする家伝の一節です。同時代史料による任命の確認ではありません。
直江系図と同様に「白雉九年」の表記が見えます。年代の不整合は、この史料を追加しても解消しません。後世の家伝として扱います。
「宮野社」から語を切らずに引用します。画像には前後に恵蘇八幡宮の記事も見えます。職掌を伝える家伝で、同時代の任命を証明するものではありません。
家伝では、斉明天皇の百済救援に伴い定家が祭祀を担い、恵蘇八幡宮の祠官となったとされる。古代部分は伝承・仮説として慎重に扱う。
系図は、吉松定家が朝倉で祭祀を始め、宮野に住んだと記します。ただし、吉松定家の存在や祭祀職への任命を示す同時代史料は確認できません。
展示コラムでは、宮野神社境内の遺構を、遺跡登録名「中宮野神社内古墳」と地域の「藤原氏の祖先の墓」という伝承に分けて紹介しました。登録されていることだけでは、築造年代や埋葬者までは確定できません。
縁起・墓碑に見える「吉松修理藤原種政」「吉松民部少輔藤原種吉四代孫」は、後世の吉松家が藤原の名を併記した手掛かりです。生物学的な血縁を直接証明するものではありません。初代・定家の宮野居住という家伝と重ねて古墳を考えることはできますが、定家の墓という見方は仮説であり、別人の墓や後世に伝承が重なった可能性も残ります。
麻氐良布神社は877年の『日本三代実録』と『延喜式』神名帳に名が見える社です。一方、別所神社の「斉明天皇七年(661)創立」は、後世の『福岡県神社誌』に伝わる由緒です。平安期の記録と7世紀の創建伝承は、同じ性格の証拠ではありません。
展示では、宮野を拠点とする神職が山上の祭祀に関わり、往来しやすい須川に祭祀の場を設けた、または既存の社を整えた可能性を検討しました。吉松家が661年に創建したという主張ではありません。須川の既存の社が後世に朝倉宮伝承と結びついた可能性もあります。由緒の「朝倉社」がどの社を指すか、祭神の違い、道筋と祭儀の記録を照合する必要があります。
比較調査・関係未確認
一乗谷の神職・卜部定澄には、1554年に書写した『中臣祓』の奥書や銘のある刀という手掛かりがあります。ただし、吉松系譜の「卜部定澄五世的傳」の解釈、人物の同定、系図編纂への関与は未確定です。
高知の城郭・発掘調査報告には、秦泉寺城や万々城に関わる吉松氏が登場します。朝倉城周辺の地域史を比較する材料にはなりますが、土佐と宮野の吉松氏を結ぶ系図や移動経路は確認できていません。
663年の白村江の戦いの後、北部九州では水城・大野城の築造や防人の配置が進みました。これは当時の地域背景であり、吉松家の活動を直接確認する記録ではありません。
新たに開墾した土地の私有を認める制度が始まり、土地支配のあり方が変化しました。吉松家や神領との直接の関係は確認できていません。
代数は系図の記載です。古代からの全ての親子関係が証明されたという意味ではありません。
家伝です。原文の承平元年と大蔵春実の活動年代には不整合があり、寄進の時期・範囲は未確定です。
神社と土地の関係を伝える家伝です。寄進の年代・規模は個別の検証が必要です。
直江系図の「七百余町」の記事と比較できます。吉松系譜の「町田」の二字を保持して引用します。寄進面積が実測で確認されたという意味ではありません。
前後の列に恵蘇八幡宮と斉明・天智・天皇の記述が続きます。神社の由緒を伝える記事として、寄進地の記事と分けて読みます。
系図には、大蔵春実が恵蘇八幡宮を崇敬し、第10代・吉松定政が神社に関係する土地「免上地」七百余町の寄進を受けたとあります。同時代史料による確認はできていません。
系図には、吉松家が恵蘇八幡宮の大宮司を務めたとあります。また、九州へ下向して筑前一帯を荘園として開発したとされる大蔵春実から、朝倉郷を恵蘇八幡宮の「神領」として寄進され、吉松家が朝倉郷長となったと記します。ただし、古代・中世の記述は後世の系図による部分が大きく、個別の検証が必要です。
源平合戦後、原田氏の勢力が後退し、朝倉の家伝には秋月氏・星野氏との関係が記されています。星野氏の朝倉地頭への任命は確認できていません。吉松家と両氏の関係は、主に後世の系図・地域史料から検討します。
婚姻と継承を伝える系図記事です。生年・改名年・続柄の照合が必要です。
家の継承を記す記事です。年次・続柄には未確認の点があります。
1463年は系図の記事年です。生年などとの不整合があり、改名年を確定史実として扱いません。
秋月氏との婚姻と、吉松家の継承を示す系図の記述です。年代・続柄は未確認の点を残します。
直江系図の定元の記事は「生一男定助也」と記し、この吉松系譜の種助の記事は「二男也」と記します。同じ人物の続柄を読む際に照合すべき違いです。
前頁から続く記事の抜粋です。直江系図の「継外祖定元之家」と対応する内容ですが、年次や出生順の整合性は別に確認が必要です。
系図では、秋月種照の子・吉松定助が「種」の字を受け、吉松種助へ改名したとされる。ただし、系図上の生年と改名年には整合しない点があり、年次は追加検証が必要である。
系図では、吉松定元の娘が秋月種照に嫁ぎ、その次男・定助が吉松家の養子になったとされます。その後、名前に秋月氏と共通する「種」の字が使われます。年次や続柄には未確認の点があります。
原文は種良の記事に収録されます。LPの1554年頃という来住伝承とは年代が異なり、同じ年の出来事としてまとめません。「唐」「漂白」などの字形は受領解説の漢文欄に従い、原本校合は未了です。
家伝です。種家と種良の事績の帰属、就任年、役目の範囲は別に検証が必要です。
受領解説の記載名です。種家の具体的な事績を述べる漢文はなく、この通称だけで実際の職務変更を確定できません。
直江系図にも「民部」の通称が見えます。両史料とも、この短い名の記載だけで具体的な行政職務や移住を確定できません。
『吉松系図』では、吉松種家の代から通称に「民部」が使われます。民部は行政に関係する官職名ですが、この通称だけで吉松家の実際の職務が変わったとは確定できません。
種家の次に種良・種栄の世代が記されることだけでは、種家の移住は証明できません。すでに没していた、隠居した、記事が省略された、別の吉松氏が移った可能性も残ります。串間側で伝わる「吉松右衛門」の名と、種家を結ぶ記録も未確認です。旧吉松家住宅は1919年上棟の建物であり、16世紀の移住を直接示す建物ではありません。
神社と村の役の継承を伝える家伝です。原文の「干」は受領解説の字形を保持。役目を譲った年や、計画的な分家だったかは確定しません。
神社の役と村の役が分かれたとする家伝です。計画的な分家を証明するものではありません。
画像には慶安四年辛卯二月十四日没の注記も見えます。1587年の活動を直接記したものではなく、種良の人物照合に用いる別の記事です。
1587年の秋月氏移封と太閤検地の前後に、吉松家の一部は宮野に残り、別の一部は筑後川沿いの田中へ移ったと系図は伝えます。後世の記録では、宮野に残った系統は祭祀、田中へ移った系統は村役を担っています。ただし、この分かれ方が最初から計画されていたかは確認できません。
秋月氏が日向国へ移された1587年前後に、吉松家の一部は宮野に残り、別の一部は筑後川沿いの田中へ移ったと系図は伝えます。後世の記録では、宮野の系統は祭祀、田中の系統は村役を担っています。最初から計画された分家だったかは確認できません。
代数・続柄には史料間の差異や未確定箇所があります。特に古代部分、種昔以後、寒水系は追加検証が必要です。
横方向にスクロールして系譜を確認できます
1587年、秋月氏の日向移封に従った吉松氏と朝倉吉松家の関連が推測されるが、直接の系譜接続は未確認。
原資料の代数は他の系図と異なる場合があるため、ここでは人名を軸に示します。就任年は未確定です。
直江系図では同じ三村と「兼郷長」が記され、こちらでは「兼郷代官」と見えます。役の呼び方の違いを残し、同一制度と即断しません。
受領解説の「祐子」という字形を保持しています。養子・猶子の具体的な手続きや時期は未確認です。
直江系図にも対応する続柄の記事があります。「祐子」の字形はこの画像の判読に従います。養子・猶子の具体的な手続きは未確認です。
村役の継承と婚姻を伝える系図の記事です。年代・続柄は他の資料と照合する必要があります。
直江系図の種嗣の記事と対応する短句です。続く細字には家族と養子に関する記事もありますが、ここでは読める短句を引用します。
家伝です。「家滅」を一族全体の絶滅とは解しません。退去の事情や役の交代年は未確定です。
系図の職掌・婚姻記事です。代数や各人の在任年は別に検証が必要です。
系図の職掌・婚姻記事です。古賀氏・丹下氏との続柄や年代は他の資料との照合が必要です。
同名の人物が系図にあるため、田中系の人物として区別します。
種義の早世後の継承を伝える記事です。各役の交代年は未確定です。
1668年は写本がつくられた年です。書かれた古代・中世の出来事と写本の成立年代を区別します。
後世の『吉松系図』の欄外には、吉松種政が1668年に古い系図を書き写したとする記録があります。種政自筆本の現物と、現存系図との詳しい関係は未確認です。
種政の記事中の霊社に関する注記の一部です。元禄八年は1695年で、1668年の系図書写や1682年の縁起署名とは別の記録として照合します。
展示補助カードでは、『筑前国続風土記拾遺』の大行事社に関する抜粋を、「チョウアンジ」と「チヨダ」の表記を区別して整理しました。表記が似ていても、同じ社かどうかは、地名・位置・祭神を照合して判断します。
直江系図の抜粋も、人物志に見える直江の医業と、直江が系図をまとめたという推定を分けて扱います。現在確認できる奥書だけでは、整理の年代や情報源を確定できません。展示資料を読む際は、資料に書かれた年代と、資料そのものが作られた年代を区別します。
職掌・婚姻を伝える系図の記載です。現在のLPの他系統の「38代」と混同しません。
工事への関与を伝える記録です。具体的な職務の範囲や、心労・過労が死因だったことまでは確認できません。
後継する人物の記載です。工事年に種存が役に就いていたと確定するものではありません。
『吉松系図』には、田中村庄屋・吉松種重が「井手所御仕調」として工事の人員・労務管理に関わったと記される。1761年に没したが、工事との因果関係は確認できない。
川から水を引く堀川用水と、川面より高い田へ水を上げる水車は、異なる役割を担います。種重の「井手所御仕調」は系図に記された工事関与、種煕の模型提出は墓碑銘の記録として扱い、完成した三連水車への直接の影響は未確認です。
宮野の立野には「三日三晩祈祷した」という雨乞いの伝承があります。祈祷の時期・記録、伝承上の社の正確な呼称、吉松家が主宰したかどうかは調査中です。朝闇神社の大宮司の石刻は、雨乞いを記したものではありません。田中の水利と宮野の祭祀を、同じ水不足に向き合う別々の営みとして考えます。
画像の種徳の項に隣接する注記です。元文元年は1736年で、1767年の荒神鎮座を記した文ではありません。神職の歩みを調べる参考記事として添えます。
墓碑に「吉松林作妻」。吉松 林作を吉松 種昔の父とみる中心仮説では、種昔の母候補となりますが、母子関係を直接記す史料は未確認です。
和助の父。林作の子、種昔の弟候補ですが、種昔の家を継いだ人物ではありません。
宮野吉松家墓地の刻字、法名、続柄メモ、戸籍、文献を照合した最新版です。確定系図ではなく、確認できる関係と作業仮説を分けて示します。
生年差による概算です。誕生日が不明なため、実際の満年齢は表示より1歳若い場合があります。
1763年生。吉松 種昔とは生年差が14年です。兄であった可能性も、のちに養親・後継元となった可能性も、年代上は成立します。
1732年生。吉松 種昔とは生年差が45年です。父であることは年代上可能ですが、実父と記す直接史料はまだ確認できません。
1749年生。墓碑に「吉松林作妻」とあり、吉松 種昔とは生年差が28年です。「種昔母」と記す直接史料は未確認です。
1728年生。吉松 種昔とは生年差が49年です。父であることは年代上可能ですが、両者を親子とする直接史料は未確認です。
年齢から分かること吉松 種一を兄または養親側、吉松 林作と釈妙覚信女を父母候補、または吉松 種徳を実父候補とみる各案は、いずれも年代上は成立します。ただし、吉松 種徳を父とする案では母候補を特定できず、年齢も算出できません。年齢比較は候補を整理する手掛かりにはなりますが、親子・養子関係の確定には過去帳、位牌、養子記録などの追加史料が必要です。
吉松 種晟、吉松 種徳=吉松但馬定恒とみられる人物、吉松 伊六、吉松 種一、吉松 種昔、吉松 林作、吉松 和作、吉松 和助、吉松 倉吉など。生没年と続柄の一部を確認できます。
横方向にスクロールして確認できます。破線表示は推定関係です。
種一に子がなかったため、近親の林作家から種昔を迎え、本流の後継としたという整理です。墓碑・年代・戸籍情報を最も無理なく接続しますが、養子記録は未確認です。
年代上は成立し、「但馬」と「種」の字も説明できます。今後、過去帳や位牌などで実父が確認されれば見直します。
年代上は成立しますが、二人が順に本流へ入る二段階の養子継承を想定するため、現時点では中心仮説より複雑です。
幕末・明治期の神職制度再編の中で宮野を離れ、他所で没した可能性があります。移住先・没地・墓所は未確認です。
地域で宮野の吉松家を「タジマさん」の親族として認識した口承があります。直系関係を確認できる史料ではありません。
和三郎の墓石の性格、栄三本人の墓石が未確認であることなどから、現在は候補から後退させています。
2026年7月15日提供の更新版に基づき、宮野本家の世代・氏名・備考を一覧化しました。古代から近世の記述には家伝・系図上の情報を含み、墓碑・文献で確認できる事項とは区別してお読みください。
実名・墓所不明
実名・墓所不明
1789年(寛政元年)、堀川用水に三連水車が設置された。吉松種煕の水車模型との技術的な連続性は確認できていない。
受領解説の漢文欄には筆者の補足が混在します。ここでは原文とされる短句だけを引用。女子の名前は記されておらず、直江との同定・系図の作成年は推定です。
現存する『吉松系図』の継承線が、吉松種煕の四女・吉松直江へつながる描き方になっていることなどから、直江が系図を整理した可能性があります。編纂者を直接示す署名は未確認です。
家族構成を記す系図記事です。この漢文は水車の模型や没後の褒賞を直接述べた文章ではありません。
三連水車につながる水車模型を考案したと伝わる。完成した水車への影響の程度は未確認。
朝闇神社石祠と香椎宮奉幣使の記録に『吉松駿河』『吉松但馬』が現れるが、その後の動向と墓所は不明。
和三郎の長男として記録されますが、本人の墓石は未確認です。但馬候補からは後退させています。
石刻・記録・未確認
明治4年5月14日の太政官布告により、神職は世襲ではなく選補任とされた。宮野吉松家への具体的な影響は未確認である。
この時代のうち、近世の用水工事への関与を示す一節です。医療活動を記した文ではありません。
直江系図とは別の冊子形式の写本です。表紙には「吉松系譜」とあり、巻末には採訪・謄写の注記があります。
系図・戸籍・人物誌には、杷木や博多などへ移った吉松直江、吉松春渚、吉松景山、吉松知太郎、吉松重實らが医療に携わったと記されています。すべての系統が同じ時期に医療へ移ったという意味ではありません。
戸籍で和作の子、墓碑で倉吉の父と確認できる、近代側の系統をつなぐ人物です。
展示用『吉松家系図解読』簡易再編版では、鶴鳴・春渚に医業や書画・音楽に関する家伝があることを紹介しています。仙厓との交流は年代から前代の鶴鳴のことではないかとする原著者の推定、野村望東尼への支援は春渚についての伝承として区別しています。
仙厓との交流を春渚に確定して結びつけず、人物名・生没年・家族の記録を照合する必要があります。簡易再編版は文字起こしと再編集を経た展示用の読み物であり、原著の逐語的な復刻や、全史料を照合した校訂版ではありません。
展示用『吉松家系図解読』簡易再編版は、「大蔵姓系譜」の伝来を、直江による整理の可能性、平川家での保管、昭和初期の筆写、千代から隆太郎への継承として整理しています。すべての移動年月を示す受領書や奥書が残るわけではありません。
世界と保が宮野から出た兄弟だったこと、公民館などへの机の寄付、約10年で事業を終えたことは家伝です。正確な廃業年・理由は未確認であり、労働争議を廃業原因と決めることはできません。会社登記、新聞、寄贈記録との照合が課題です。
1955年の調査で検討された人物に関する参考句です。1955年の出来事そのものを記した漢文ではありません。括弧内は受領解説の表記です。
記録を受け継ぐ姿勢を示す参考句として、1668年の書写記事を添えています。1953年以後の墓地調査を記した文ではありません。
吉松義典の『吉松家先祖之墓地発見記』は、1955年に教念寺の過去帳、田中の墓石、系図を照合し、同年9月に供養を行った経過を記します。法名が一致したという記述は調査者の体験記として読み、古い系譜全体が証明されたという意味には広げません。田中と杷木の墓や寺の移動に関する説明にも、義典の推定が含まれます。
九州歴史資料館による第1〜3次発掘調査報告が刊行された。伝承地を考古学的に検討する基礎資料だが、宮殿所在地を確定するものではない。
東京大学史料編纂所所蔵。久米邦武採訪写本。宮野本家を中心に記す。原本と採訪経緯は書誌上の追加確認が必要。
1668年の書写記録が伝わるが、現物は未確認。底本の成立時期も確定していない。
画像を選ぶと、大きなサイズで確認できます。写真・調査表の記述は、それだけで系譜を確定するものではなく、墓碑・戸籍・文献との照合に用います。
提供された写真を、刻字確認と現地状況の参照資料として掲載します。写真だけで人物の続柄や年代を確定するものではありません。
神社、村、用水、墓地、移住先を、関係する人物と史料に結びつけて紹介します。場所によって確認できる活動と史料の種類は異なります。
吉松種重の工事関与と吉松種煕の水車模型に関する記録があります。完成した水車との直接の技術的関係は未確認です。
福岡県朝倉市宮野地区に伝わる吉松家の系図と関連資料を整理し、確認できる事実、家伝、口承、分析、仮説を分けて公開することです。家の古さや価値を証明することではなく、根拠と未確認事項を次の調査に引き継ぐことを重視します。
本サイトでは、宮野を起点とする吉松家と、後世に田中、杷木、博多などへ広がったと整理される家流をまとめて「朝倉吉松家」と呼びます。これは本サイト上の整理名称であり、現在の家族間の組織や上下関係を示すものではありません。
初代から宮野・田中・博多側の系譜を記す。1820年前後に吉松 直江が整理したとする説がありますが、編纂者を示す署名などは未確認です。1668年の吉松 種政による書写記録との関係を検討します。
東京大学史料編纂所所蔵。宮野吉松家を中心とする記述を含みます。原本の著者、児玉韞旧蔵とされる経緯、久米邦武の採訪過程は、目録・原本画像による追加確認が必要です。
この文は、村民の伝説や『朝倉紀聞』『続風土記』を踏まえた後世の説明です。吉松家の人物名、来訪年、社務の継承を同時代史料で確認したものではありません。
複写資料をそのまま確認できます。PDFは研究論文ではなく、系図・系譜史料の公開用複写です。
古い系図を書写し直したとする欄外記録が、後世の『吉松系図』に引用されています。種政自筆本の現物は未確認です。
現存系図を整理した人物とする説があります。系図の赤線や記載範囲が根拠ですが、編纂者を直接示す記録は未確認です。
本サイトは、歴史的に完全に証明された血統書ではありません。とくに古代から中世前半は、後世の系図や縁起に依存する部分が大きく、「このような由緒が伝えられてきた」という水準で読む必要があります。新しい史料や研究によって、内容と系図整理は更新されます。
外部史料で確認できる事実、家伝、口承、著者の分析・仮説を明示的に区別します。
記述の根拠と、調査上の位置づけを分けて確認できます。
杷木・博多などへ移った人物のなかに、漢方や近代医学に携わった人が確認できます。
人名、生没年、続柄、場所を確認できる物証を読む。
同時代史料や地域全体の出来事と照合する。
成立時期、記した人、目的、同時代性、矛盾の有無を確認
複数の資料や物証で確認できる
家に伝わるが外部確認は未了
現在の史料だけでは確認できない事項と、追加調査に必要な資料を整理します。
系譜に見える「卜部定澄五世的傳」と、定家の出自・通字「定」の関係は未確定。
1853年・1864年の記録以後、墓碑も居所も確認できない。明治の神社制度再編との関係が課題。
公開版では、史実関係を変えない範囲で、比喩、礼賛的な評価、根拠に対して強すぎる断定を抑える編集を行っています。系図・家伝・仮説は、外部史料で確認された事実とは区別してお読みください。
本研究の目的は、福岡県朝倉地域の吉松家について、系図・墓碑・地域史料に見える役割の変化を検討することにある。もっとも、古代部分については一次史料による裏付けが十分ではないため、本稿では系図・縁起・墓碑・口伝を、確定史実としてではなく、吉松家が自らの出自と役割をどのように理解し、後世へ伝えようとしたかを示す史料として慎重に扱う。
系図は吉松家の起源を661年の朝倉行幸と結びつけるが、古代・中世部分を確認できる同時代史料は乏しい。近世以降には、墓碑や地域史料から庄屋・保正・神職などの役割が確認できる人物がいる。
1587年前後に宮野側と田中側で異なる役割が記録される。これが吉松種良による計画的な分割だったかは確認できないため、結果として生じた役割分化として扱う。
『吉松系図』では、初代から吉松種熙の四女へ赤線が引かれている。この四女を吉松直江とみなし、編纂者とする説があるが、署名などの直接的な根拠は確認できていない。
『吉松系図』が一族全体を扱っているのに対し、この『吉松系譜』は宮野吉松家(本家)の記述が中心的である。原本の著者は明記されておらず不明であるが、記述は詳しいが、著者と成立過程は確認できていない。
確認できる範囲では、これら二つの史料はいずれも1800年頃(寛政〜文化年間)までの当主までしか書かれてないことから、その頃に成立したと見られ、当主に補足する記述内容も多くが一致している。
『吉松系譜』の作成目的と伝来経路は未確認であり、本家の由緒を記録する性格を持つ可能性がある。
以上を踏まえ、本研究では『吉松系図』および『吉松系譜』を「歴史的事実の完全な記録」としてではなく、「吉松家がどのように自らの歴史を理解し、後世に伝えようとしたかを示す史料」として位置づける。したがって、系図に記された内容と、他の史料や時代背景から推測される事実を、慎重に区別しながら論を進める。
系図は吉松定家の登場を661年の斉明天皇行幸と結びつけるが、同時代史料では確認できない。以下では、家伝の背景として古代朝倉の地理と考古学的知見を整理する。
遠隔地系土器や支石墓は、朝倉地域が外部との交流を持っていたことを示す。661年の行幸地選定との直接的な因果関係は確認できない。
筑後川水運と豊後方面への陸路は、行幸地選定を考える際の地理的条件として検討できる。ただし選定理由を記す直接史料はなく、吉松家の起源との関係も未確認である。
661年の斉明天皇行幸は『日本書紀』に記される。吉松定家との関係は後世の系図に限られるため、本節では両者を区別して扱う。
百済救援を背景に、斉明天皇は661年に筑紫へ移動した。行幸の規模と朝倉での施設配置には未確認の点が多い。
1つ目は、旧朝倉村の宮野・須川地区の平野部である。この地は『朝倉紀聞』などで古くから宮の所在地として指摘されており、地元伝承が残る場所である。1973年には九州歴史資料館による「朝倉宮伝承地」の発掘調査が行われ、庭園の一部と思われる石敷遺構が確認されたものの、宮殿建物の重要な痕跡は発見されず、考古学的には未確認の状態にとどまっている。
本稿では、朝倉橘広庭宮を単一の宮殿跡として断定するのではなく、百済救援という非常時に形成された、政治・軍事・祭祀を含む広域的な前線拠点として捉える。この理解に立つことで、宮野・須川・志波・山田など、斉明天皇伝承をもつ複数の地点が、それぞれ異なる機能を担っていた可能性を説明しやすくなる。
朝倉と後の北部九州防衛施設との具体的な関係は確認できていない。
吉松定家の祭祀と国防体制を直接結ぶ史料は、後世の系図以外に確認できない。
現時点で確認できる文献上、斉明天皇行幸地としての「朝倉」という表記が明確に現れる最初期の史料は、養老4年(720年)に成立した『日本書紀』である。この点は重要である。なぜなら、斉明天皇の朝倉行幸は661年の出来事であり、『日本書紀』の成立はそれから約60年後にあたるからである。したがって、『日本書紀』に記された「朝倉」という表記を、そのまま661年当時の現地呼称とみなすことはできない。
「旦」は、夜明け、朝、あるいは天子が朝に政務を執る時間を意味しうる字であり、「座」は座所・政務空間・儀礼空間を意味しうる。したがって「旦座」は、天子が朝に政務を執る座所、すなわち政治的・儀礼的空間を表す行政的名称であった可能性がある。ただし本稿では、「旦座」が当時どのように読まれていたかについては未確定とし、「旦座=アサクラ」とは断定しない。
ただし、「麻氐良」から「麻久良」への字形上の接近だけで、「朝倉」表記の成立をすべて説明できるわけではない。ここで補助的に考慮できるのが、太宰府行政空間に存在したと考えられる「旦座」系の表記である。
第二に、「旦座」の当時の読みは未確定であったとしても、編纂者がその字義を「朝の座」「天子の政務空間」と理解し、斉明天皇の行宮を表す政治的名称として「朝倉」へ置き換えた可能性である。この場合、「朝倉」は「旦座」の音を受け継いだというより、「旦座」が持つ政治的・儀礼的意味を、中央国家の言語へ翻訳した表記であったことになる。
史料によれば、「朝倉橘広庭宮」を造営するにあたって、朝倉社(麻氐良布神社と推定される)付近の樹木が伐採された際、「鬼火が現れた」「多くの近侍が病死した」といった超自然的な現象が報告され、陣営内に原因不明の疫病が蔓延したと記録される。
『吉松系図』と『吉松系譜』は、斉明天皇の朝倉行幸に伴い吉松定家が祭祀を始めたと記す。ただし、定家の存在や任命を確認できる同時代史料はない。
しかし、鎌倉時代初頭に編纂された年代記『二中歴』および「九州年号」の視点を導入することで、この「白雉9年」は誤記ではなく、当時の出来事を反映している可能性が浮上する。
以上の考察から、『吉松系図』に見える「白雉9年」という記述は、単純な誤記として退けるよりも、百済滅亡の報を受けた660年頃の政治的緊張と祭祀動員を反映した伝承として受け止める余地がある。
ただし、この解釈はあくまでも九州年号という傍証的な史料に依拠したものであり、「白雉9年」が同時代の確実な記録であると断定することはできない。本稿では、この記述を、斉明天皇の朝倉到着以前から異国降伏・百済救援に関わる祭祀準備が意識されていた可能性を示す注目すべき伝承として位置づけ、確定的事実とは区別して扱う。
家名を「朝倉で吉を待つ」に由来するとする話も系図・家伝に見える。吉松姓の使用開始時期と命名経緯は確認できていない。
確認できる範囲では、前述した16世紀の神職・卜部定澄もまた「定」の字を用いている。「定」という文字が卜部氏・吉松家の双方に用いられているという事実は、両者が祭祀職としての共通規範や同族意識で結ばれていた可能性を示唆している。ただしこれは傍証の域を出るものではなく、より確実な史料による裏付けを待つ必要がある。
吉松定家を卜部氏系の祭祀者とする仮説がある。根拠は後世の系譜記述や通字などの間接材料に限られ、同時代史料による確認はできない。
宮野神社には中臣鎌足創建の伝承があり、吉松家が祭祀に関与したとされる。ただし、吉松定家と中臣鎌足の主従・同族関係を示す同時代史料は確認できない。
また、宮野神社の境内には小規模な円墳型古墳がある。時代背景を考慮すると、小規模な円墳が多く見られる時期は、646年に薄葬令(はくそうれい)が発布されて以降であり、これ以降の古墳は小型化し、形も方墳(四角)や円墳(丸)が主流になった。この時代背景を考慮すると、宮野神社の古墳は7世紀後半から8世紀初頭にこの地で没した人物のものである可能性があり、藤原氏(中臣氏)にゆかりのある人物、あるいは初代・吉松定家に相当する人物が被葬者の候補として浮かび上がる。ただし、現段階では考古学的な実証を欠くため、あくまで仮説として提示するにとどめる。
系図では、1587年前後に吉松種栄が宮野側の祭祀を担ったとされる。宮野神社との関係や職掌の具体的な移行過程は追加検証が必要である。
吉松家の系図・通字・社伝には古代祭祀との関係を示す記述があるが、成立時期の隔たりが大きく、古代の事実としては確認できない。
この祭祀再編には、外来の軍事指揮官である春実が在地支配を円滑に進めるための政治的意図が読み取れる。すなわち、斉明天皇や天智天皇という「土地の記憶」を継承・保護する者として自らを位置づけることで、在地支配の正統性を高めようとしたと解釈できる。ただしこれは史料から導かれる推論であり、春実の意図を直接示す記録が残るわけではない。
まず、「斉明・天智天皇合祀672年説」が抱える時代的な矛盾についてである。恵蘇八幡宮の社伝や江戸時代の縁起書には、同社が672年(白鳳元年)に天武天皇の勅命によって斉明天皇と天智天皇が合祀されたと記されている。
恵蘇八幡宮縁起書に見える宇佐神宮からの応神天皇勧請と672年の斉明・天智合祭については、後世の編纂意図が反映された可能性を検討する必要がある。現段階で成立時期や経緯は確定できない。
次に、周辺神社の記録と一致する「941年頃説」についてである。吉松家の系図には、朱雀院の時代の10代当主・定政の頃に、地元の有力武将である大蔵春実が来訪し、斉明・天智の二天皇を合祀して土地を寄進したと記されている。この記述は、恵蘇八幡宮だけの情報ではなく、周辺神社の由緒と照らし合わせると高い整合性が確認できる。
当時の歴史状況とも矛盾しない。931年から940年頃は、藤原純友の乱などを通じて武士が台頭し始めた時期であり、大蔵春実もこの乱の鎮圧によって勢力を拡大した人物である。この時代、武士たちの間では戦の神である八幡神への信仰が急速に広がっていた。その流れの中で、春実が自らの勢力圏の守り神として恵蘇八幡宮を整備し、さらに由緒ある斉明・天智天皇を合祀して権威付けを行ったと考えることは、歴史の流れとして自然である。
以上の検討から、恵蘇八幡宮における合祀の実年代については、941年(天慶4年)頃とする吉松系図の記述が、周辺神社の由緒・大蔵氏の活動期・八幡信仰の成立過程という複数の観点からより整合的であると考えられる。ただし、これをもって1682年の縁起書の記述を完全に否定することは慎重であるべきであり、今後の史料発掘によって再検討の余地が残ることを付記しておく。
系図では、大蔵春実が吉松定政に祭祀の再編を命じたとされるが、同時代史料では確認できない。
祭祀再編を在地支配と関連づける解釈は可能だが、大蔵氏の意図を直接示す記録は確認できない。
この祭祀再編の見返りとして、春実は吉松家に対し、朝倉郷のうち700余町を「免上地」として寄進したと伝えられる。免上地とは、国への税が免除された特権的な所領を指す。しかし、当時の「700町」という数字の評価には慎重でなければならない。
まず、当時の700余町という広さについて、正確な広さは分からないが、仮に一般的な単位で評価をした場合は、約700ヘクタール (ha)程度となる。これは東京ドーム約148個分に相当し、旧・朝倉町全体(約3,456ヘクタール)の約5分の1に相当する広さの土地の寄進を受けたことになる。ただし当時の「町」の基準は時代・地域によって異なり、この数字はあくまで参考値として理解すべきである。
吉松家が依拠してきた「免上地七百余町」もまた、大蔵氏(原田氏)の権益として実質的に支えられていた以上、その後ろ盾を失ったことで経済的・法的な基盤が大幅に揺らいだと推定される。直接的に「平家没官領」として接収されたことを示す文書は現時点で確認できないが、吉松家が長年依存してきた軍事的・政治的後ろ盾を失い、存続の危機に直面したことは状況的に十分推定できる。
しかし、1185年頃から1288年までの約100年間、それまで神領地であった朝倉郷や大宮司家・吉松家がどのような支配状況にあったかは不明であり、吉松家がそのまま朝倉郷長を担ったのか、それとも鎌倉幕府から御家人が来て支配・管理を行ったのかは分かっていない。
この伝承に基づけば、星野氏は天皇家の系統につながることになる。家譜の記述をそのまま史実と断定することは慎重であるべきだが、血筋が社会的権威の重要な源泉であった当時の社会において、こうした出自の伝承を保持すること自体が、星野氏の格式と存在感を高める機能を果たしていたと考えられる。
ただし、星野氏の本拠は妙見城で、位置的には現在のうきは市から星野村付近であり、朝倉とは筑後川を挟んだ位置関係にある。距離はそこまで遠くないものの、筑後川という物理的障害の影響は大きかったため、実際の朝倉エリア(上座)の支配・管理は、朝倉に住む有力家臣に任せていた。
『星野家譜』の記述によれば、星野氏はこの反乱を収束させ、朝倉エリア(上座)の所領を維持したとされる。ただしこの経緯の詳細については、家譜以外の史料による確認が今後必要である。いずれにせよ、この出来事は星野氏と朝倉在地の人々との間に生じていた緊張関係を示唆している。
また、この時に松平遠盛に続いて反乱に加担した人物として、主に杷木地区および三奈木地区の城主の名が確認でき、これらのエリアは吉松家の神領地だったとされる朝倉郷の両隣という位置関係にあるが、この時、吉松家がどのように立ち回ったかの記録は残っていない。
原田種雄は地名に由来する秋月姓を用い、古処山に城を置いたとされる。改姓の具体的な意図は確認できない。
鎌倉幕府の滅亡後、南朝と北朝が並立し、九州の在地勢力も所属する陣営を変えることがあった。以下では、家譜の記述と確認できる政治経過を区別して整理する。
1359年(正平14年)の筑後川の戦いでは、秋月種高が少弐氏とともに北朝方として参陣したとされる。所属陣営を変更した理由は確認できていない。
『星野家譜』は、星野氏が南朝方として菊池氏と連携したと記す。ただし、家譜が示す忠節像と実際の政治行動は分けて検討する必要がある。
家譜には、星野氏が懐良親王、良成親王ら南朝方の皇族を迎えたとする記述がある。具体的な滞在地や関与の程度は、他史料との照合が必要である。
『星野家譜』は星野氏の独立性を強調する。一方、他史料には大友氏などへの従属を示す記述もあり、一貫した独立勢力だったとは断定できない。
系図では、吉松定元の娘が秋月種照の正室になったとされる。婚姻の政治的意図を直接示す史料は確認できない。
『吉松系図』と『恵蘇八幡宮御縁起』には、「種」字下賜と代数関係について対応する記述がある。ただし両史料の成立は出来事より後であり、独立した同時代証拠とはいえない。
ただし、「傍証の一致」は「史実の確定」とは区別される。縁起書自体が1682年の編纂であり、出来事から約220年後の記録であること、また縁起書の編纂目的が神社の格式の維持・再興にあった可能性を本稿第三章で指摘したことも踏まえると、この一致をもって「種」字下賜の全容が確定したと断言することは慎重であるべきである。本稿では、この外部史料との照合を、吉松系図の当該記述の信頼性を高める重要な傍証として位置づける。
一方、縁起書に記された「祠官・定助の祈祷の功に対する下賜」という具体的な理由については、『吉松系図』が示す年次(1463年・定助2歳前後)と照らし合わせると、時期の整合性に問題が生じる。2歳前後の幼児が祠官として祈祷を行ったとは考えにくいからである。この矛盾については、以下の可能性が考えられる。
第一に、定助の生年(1461年)が系図上の誤記であり、実際にはより早く生まれていた可能性。第二に、「種」字下賜の年(1463年)が誤記であり、定助が祠官として実際に活動できる年齢に達した後に行われた可能性。第三に、縁起書の「祈祷の功」という記述が、定助本人ではなく前代・定元の取り組みを指しており、秋月種照が実子である定助(種助)に対して通字を与えたという形式的な授与であった可能性。
いずれの可能性が正しいかは現時点では確定できないが、「種」字が吉松家の通字として定着したという事実自体は、複数の文書記録および現存する墓石の刻字によって確認できる。
『吉松系譜』には、26代・吉松定元の記述として「式部大輔定元」という文字が見える。それ以前の吉松家の人物に「式部」の文字は確認できないため、定助が「種」の字を拝領する前後の時期に、吉松家は秋月家より「式部(しきぶ)」という百官名(ひゃっかんな)を名乗り始めた、もしくは名乗ることを許されたと見られる。
所領交換の経緯は星野家側の記録に詳しいが、交渉条件や独立性の評価は他史料との照合が必要である。
ただし、星野氏と大友氏は関係性が良くなかったという記録もあり、そういった状況で大友氏が、星野氏の地頭支配下にある朝倉郷の吉松家と直接関わりを持ったとは考え難い側面もある。
近世に吉松家の一部が庄屋・保正を担ったことは確認できるが、戦国期の「民部」という百官名と直接つながるかは、追加検証が必要である。
しかし、近隣の神領地でも類似した事例は確認できる。恵蘇八幡宮と神社の格こそ違うが、奈多八幡宮や宗像大社なども、宮司家が周辺地域の武家や大名と独自の関係を築いていたとされる。神社の宮司家は、単に土地の支配者に従属する存在ではなく、宗教的権威を背景に、複数の権力者と関係を結ぶことで自らの地位を保全する戦略をとることがあった。
吉松家と星野氏・秋月氏の関係は複数の家伝史料に見えるが、各氏の権限や保護関係を示す同時代史料は限られる。
岩石城は秀吉軍に攻略された。益富城の一夜城に関する話は後世の伝承であり、秋月氏降伏への影響は確定できない。
吉松という姓が全国的に見ても希少であること、および当該移住の時期・経緯が朝倉吉松家の歴史と符合することを考慮すれば、この串間の吉松氏が朝倉吉松家と血縁的なつながりを持つ可能性は高い。ただし現時点では直接的な系譜史料による確認には至っておらず、今後の調査に委ねる部分が残る。
また、秋月氏の移封後、朝倉に残留した吉松家の中心人物は、当時20歳前後であった第32代・吉松種良である。主君の退去という非常事態における重大な時期の意思決定が、依然として壮年期(40〜50歳代)にあったはずの第31代・種家を差し置いて息子の種良を中心に行われたとは考えにくい。この状況から推測すると、第31代・種家は長男・種良を朝倉に残し、自身は秋月氏と共に宮崎へ下向した可能性が考えられる。確証を得られる史料は現時点では確認できないが、当時の主従関係の慣行と系図上の年齢関係から導かれる仮説として提示しておく。
しかし、秀吉が進めた太閤検地の理念において、こうした不明瞭な権益は真っ先に否定される対象であった。検地とは土地の生産力を石高として一元的に把握し、年貢負担体系を確立する政策である。有力な宗教勢力であっても寺社領は再編・削減され、領主が保証する「朱印地」へと切り替えられた。
この過程で種良自身は田中村へ移住し、田中・宮野・烏集院の三村の「保正(村落統治者)」、および朝倉地域の「郷代官(藩側役人)」、さらに恵蘇八幡宮の「総大宮司(名誉職)」を兼任した。宮野・烏集院は吉松家古来の勢力基盤であるが、田中村を新たな拠点とした具体的な経緯については現時点では確認できない
当時の時代背景と照らし合わせると、太閤検地によって、各家に与えられる土地の見直しが行われた結果、宮野周辺の農地は旧来から農業を営んだ家が所有することになり、神職から新しく農家に転身する吉松家に与えられた地元がこの「田中地区」だったことが推定される。ただし、田中地区に関する歴史的情報は乏しく、そもそも田中地区の開墾時期や田中村がいつどのようにして始まったのかは不明であるため、確証を得るには今後の史料発掘を待つ必要がある。
種良は種仲の成長に伴い自らの役職を譲ったが、種仲は惜しくも若くして亡くなった。その後、宮野・烏集院の保正職は次男・種嗣が継承したものの、その世襲は短期間で途絶え、古賀氏へと移譲された。田中村の保正職については、種仲の遺児・種為が幼少であったため、種良が一時的に再任したと見られ、恵蘇八幡宮の総大宮司は宮野吉松家の種栄に移譲した。なお、郷代官職については種仲以降の吉松家による継承は確認できない。
機能分化を遂げた吉松家であったが、前述の通り、神領を喪失した宮野吉松家の経済基盤については不明な点が多い。
吉松種良・吉松種仲の意図を直接示す史料はなく、祭祀再興を見据えた行為だったかは確認できない。
吉松家と古賀氏の関係は家譜などに記されるが、計画的な同盟だったかは確認できない。本節では、両家の関係を示す記録を整理する。
現代語訳(古賀氏関係部分のみ):天正(天文の誤記か)年間のある時、「古新」と称する者が、漂泊の末に須川村へ来て住みついた。この者は「古賀新左衛門」といい、古賀氏の祖先である。出身地が唐古賀(現在の太宰府・通古賀)であるため、苗字を古賀と称している。つまり、旧来の居住地がその苗字の由来である。この古新は、吉松種家を頼って朝倉に身を寄せた。そのため、種家の命によって古新は朝倉郷に赴き、その縁から触口(農民代表・連絡係)・筆役(書記)・散役(雑務役)を務めたという。その後、天正十五年(1587年)、豊臣秀吉が筑紫へ出陣した際、吉松家は所領を没収された。その後、慶安四年(1651年)以降、朝倉の触口の役は古賀氏が勤め、大宮司は吉松種栄が勤めた。(一部省略)
帰農後に村役を担った家があったことは確認できるが、武士期の能力が直接継承されたかは個別に検証する必要がある。
在地の村役人層と近世初期の行政移行との関係は、他地域との比較を含む追加検証が必要である。
吉田家による神職免許制度と、吉松種政が縁起に署名したことの関係は考えられるが、署名の意図を示す記録は確認できない。
1682年の『恵蘇八幡宮御縁起』巻末には、吉松種政の名が左座祠官として見える。署名が持つ制度上の意味は追加検証が必要である。
『恵蘇八幡宮御縁起』の記述には神社再興期の編纂意図が反映された可能性があり、他史料との照合が必要である。
両資料の記述の相違について確たる史実は不明であるが、種政が家伝と公的縁起との間で整合性を取る必要性に直面していた可能性が示唆される。
本節では、吉松種徳と吉松定恒の関係、1767年の荒神祠刻字、近世の生業について確認できる資料を整理する。
一方、星之原(ホシノハル)の荒神については、史料批判上の重要な留保が必要である。元禄7年(1694年)に大庄屋・古賀仁右衛門高重によって編纂された地誌『朝倉紀聞』には、星之原に荒神社があり「土之御祖神(つちのみおやのかみ)」が祀られていると記載されている。土之御祖神は、大年神の系譜に連なる大土神の別名であり、土壌の母神あるいは土地の守護神としての性格を持つとされる神である。
種徳と星之原の荒神との関係については、現時点では以下の解釈が考えられる。第一に、種徳が既存の星之原荒神社に改めて関与・奉斎した可能性。第二に、吉松系図における「二箇所への鎮座」という記述が、新規の勧請と既存社への関与を同列に記したものである可能性。第三に、系図の記述そのものに後世の混同が生じている可能性である。いずれにせよ、星之原の荒神については「種徳による新規鎮座」と断定することは史料的に慎重であるべきであり、今後の調査を要する問題として保留する。
父とみられる吉松種晟の没年と荒神祠の建立年はいずれも1767年だが、両者の因果関係は確認できない。
吉松林作と吉松種徳の続柄は未確認である。戸籍・墓碑から吉松和作、吉松和助、吉松倉吉の関係は整理できるが、林作から和作への接続と現在の宮野吉松家への連続性は作業仮説である。
本節では、明治期の神社制度再編と、記録に見える吉松駿河・吉松但馬の関係を検討する。両者のその後の居所や墓所は確認できていない。
1864年(元治元年)の記録: 田中由利子氏の研究によれば、香椎宮への奉幣使派遣の際、行列参加者として「吉松駿河」「吉松但馬」の名が確認できる。
時系列と照らし合わせると41代・種昔が亡くなったのは1847年(71歳)であり、1853年に石祠の刻字で存在が確認できる「吉松駿河」は第42代にあたり、1840年頃から祠官になったと考えられる。代数換算からすると「吉松但馬」は第43代に相当すると考えられ、1853年および1864年の史料記録から、この親子が幕末の動乱期にかけて神職として活動していたことが文献上確認できる。
本研究における大きな謎は、この「駿河」「但馬」という官職名を名乗る親子の実名(諱)や、その後の動向を示す記録が、現時点で確認できない点にある。
たとえば、歴代当主や神職的性格をもつ人物については、「阿郡元気神吉松修理種正霊社神」「吉松壱岐守種生」「吉松但馬定恒」「阿南元気神吉松但馬種昔」など、官名・実名・神号的表現を伴う刻字が見られる。一方で、配偶者や近親者、あるいは一部の男性については、「釈妙恵信女」「寂節利信女」「釈恵空居士」「釈妙覚信女」「釈芳山信士」など、仏教的な法名を用いた刻字も多く確認できる。
第一に、和三郎の墓石があまりに簡素であり、歴代の神職祠官に見られる威厳ある墓石と大きく異なる。第二に、「栄三父」と刻まれているにもかかわらず、当の栄三自身の墓石が確認できない。第三に、栄三の弟とみられる栄次の墓石は存在し、さらに後の世代の栄助の名も戦死者名簿に確認できるため、栄三だけが不自然に空白となっている。
より妥当な整理として、本流40代中継の種昔(1777年生、1847年没)の子候補が「吉松駿河(実名不明)」、その孫候補が「吉松但馬(実名不明)」にあたるが、神職廃止に伴う社会的変動のなかで宮野を離れ、他所で没したために宮野吉松家墓地に墓石が残っていないと考える。つまり、彼らは「存在しなかった」のではなく、「文献上は存在が確認されるが、行方が追えなくなった人物たち」である。
なお、和三郎(1816年生、1874年没)は、林作家流の「林作→和作→和助→倉吉」とは別系統の人物として整理され、林作家流の一員としては位置づけない。林作家流はあくまで和作・和助・倉吉の系譜として把握する。氏名から推察する限り、和三郎は和作家流と近縁であった可能性はあるものの、現段階では和作の子・弟のいずれとも断定できない。したがって本稿では、和三郎を林作家流の確定系譜には組み込まず、別系統または未確定人物として保留する。
吉松政幸と吉松駿河・吉松但馬との直系関係は戸籍で確認できていない。「タジマさん」に関する話は地域口承として記録し、離郷の経緯や人間関係を示す証拠とはみなさない。
宮野吉松家では、明治期の制度変更と前後して世襲神職としての記録が途切れ、以後は農業に従事したとみられる。ただし、その選択過程を直接示す史料は確認できていない。
明治期以後に農業へ移った経緯は、世襲神職制度の廃止との関連が考えられるが、駿河・但馬父子の具体的な判断は未確認である。
本節では、筑後川から取水する堀川用水の整備と、工事の人員・労務管理に関与したとされる吉松種重について、確認できる記録を整理する。
古賀百工の水利計画と、戦国期の両家関係を直接結ぶ史料は確認できない。
本節では、田中吉松家の吉松種重が担ったとされる工事の人員・労務管理と、吉松種熙が提出した水車模型について、確認できる記録を整理する。
工事は1760年に完了した。吉松種重は翌1761年に37歳で没したが、工事との因果関係は確認できない。
『吉松系図』には吉松種重の早世と工事への関与を結びつける記述があるが、死因を確認できる資料はない。
吉松種熙は、父・吉松種重の没時に幼少だった。父の工事についてどの程度知っていたかを示す記録は確認できない。
墓碑銘には、吉松種熙が水転車を研究し、模型を郡の役所へ提出したと記される。模型の構造や開発過程の詳細は未確認である。
吉松種重の工事への関与と吉松種熙の水車模型は別の記録に見える。両者の直接的な技術継承は確認できない。
田中吉松家の人物が水利事業と水車模型に関わったとする記録があるが、地域全体への影響の程度は追加検証が必要である。
現在の水車群と吉松種熙の模型との技術的な連続性は確認できていない。
吉松種重と吉松種熙に関する記録を、父子による一体的な事業と評価できるかは未確認である。
義典の発見により田中村に生きた先人達の存在は確認されたが、系図と関連記録の内容はまだ漢文の古文書を解読しなければ確認できない状態であった。時は流れて1997年、舞台は大阪と栃木へと移る。
朝倉市長安寺地区に鎮座する朝闇神社が、英彦山神領の境界守護として配置された大行事社の一つであったことは、朝倉地域の複数の歴史記録において確認できる。
なお『筑紫史談』は大正2年(1913年)に発足した筑紫史談会の機関誌であり、大正3年(1914年)から昭和20年(1945年)にかけて90集が刊行された。会員には政治家・官僚・実業家・学者など福岡県の近代史に名を連ねる人物が多く、創刊の辞において「歴史研究の専門家ではない」と明言しているものの、その研究水準は高く、筑前地域の郷土史研究において現在でも必読の資料とされている。ただしその性格上、記述内容については他史料との照合が必要であることを付記しておく。
朝闇神社と恵蘇八幡宮の地理的な近さは確認できるが、同一人物が双方の祭祀に関与したことを示す直接史料はない。
現在も須川の長安寺には毘沙門堂が残っており、修験道・天台系の信仰が現代まで継続していることが確認できる。
いずれにせよこの矛盾は現時点では解消できず、今後の調査課題として残る。
以上の仮説については以下の点が未確定であり、今後の調査課題として残る。
なお朝闇神社が大行事社の一つであることについては、『筑紫史談 第13集』における記述のほか、朝倉地域の複数の歴史記録においても確認できる。
これら内部史料の記述については、可能な限り外部史料や史実(斉明天皇の朝倉行幸、大蔵春実の事績、秋月氏の動向、昭和28年大水害など)との照合を試みた。特に古代における卜部氏との関連や、中世の土地支配の実態については、伝承と史実の整合性を慎重に検討し、いくつかの仮説(現地採用説・中央派遣説など)を提示するにとどめた。
吉松家の歴史は一族固有の事例にとどまらず、中世から近世にかけての地方社会が、複数の氏族間の機能的分業ネットワークによって維持・発展してきた可能性を示す事例として、より広い文脈で位置づけられる余地がある。ただしこの普遍化には、九州の他地域における社家・庄屋層との比較研究を通じた検証が必要であり、その課題は今後に委ねられる。
近代以降の系図整理や墓地調査により、移住後も家に関する記録が参照・更新されたことが確認できる。
明和4年(1767年)没。墓石の刻字で確認できる。没年は子・種徳による荒神鎮座(同年)と一致し、家督継承と荒神鎮座が連動した可能性がある。
墓石は未確認。神職廃止に伴う社会変動のなかで宮野を離れた可能性がある。
墓石は未確認。
寒水村吉松家は『吉松系譜』のみに記載がある。『杷木町史』では、36〜37代の頃に該当する吉松種清という人物、および年代不明の吉松久治という人物名も確認できる。
現時点の資料では確認できない事項を以下に整理する。
これらは追加史料が必要な調査課題である。
近世以降には、庄屋・保正、水利事業、医療に関する記録が確認できる。ただし、これらを一貫した家の方針として説明する直接史料はない。
本稿で確認できるのは、異なる時期・家流に祭祀、村落行政、治水、医療、記録整理に関わった人物がいることである。相互の因果関係や継続性は、今後も史料ごとに検証する必要がある。
「朝倉で吉を待つ」を家名の由来とする説明は家伝であり、命名時期と由来は確認できていない。
吉松家の末裔のひとりで、甘木で家具屋を営んでいた吉松世界が、舒翠館の家具を寄付したという伝承があります。今回提供された写真では、木製家具に「寄贈者人名」と記され、その中に「吉松世界」の名が確認できます。
家具寄贈の伝承に、現物に記された名前という具体的な手掛かりが加わりました。ただし、寄贈の年月、家具の種類と点数、吉松木工製作所で製作されたものかは、まだ確認できていません。写真に写る寄贈者名から、館の家具すべてが世界の寄贈だとすることもできません。寄贈者名と、家具の製作元は分けて考えます。
1949年刊『福岡地方勞働委員會三年誌』には、同社の1947年の労働争議と、9月17日の和解が記されています。約10年で事業を終えたという話は家伝であり、正確な廃業年と理由は未確認です。争議を廃業の原因とすることはできません。
出典・参照:『吉松系図』の古賀氏関係記事/舒翠館の沿革・家具寄贈の伝承と寄贈者名の坂田拓也からの情報提供・寄贈者名の写真(2026年10月7日受領。寄贈台帳は未確認)/展示コラム第7頁「吉松木工製作所」、会社記録、広告2点、『福岡地方勞働委員會三年誌―昭和二十一年〜昭和二十三年度』(1949年)、宮野吉松家の家伝。
未確認:私有史料の該当丁、戸籍、聞き取り、散逸文書
未確認
未確認の点を、
次の調査へ残す。