祭祀・墓碑・荒神祠
恵蘇八幡宮や宮野神社の祭祀に関する家伝、宮野墓地、荒神祠の刻字が調査の中心です。
最初に、吉松家がどこを拠点にし、いつ複数の系統へ分かれ、各地でどのような役割を担ったと記録されているかを説明します。そのうえで、外部史料や墓碑で確認できることと、後世の家伝・仮説を区別します。
「確認」は外部史料・墓碑などで人物や出来事を確認できるもの。「家伝」は後世の系図や縁起に記されたものです。
系図は、吉松定家が朝倉で祭祀を始め、宮野に住んだと記します。ただし、吉松定家の存在や祭祀職への任命を示す同時代史料は確認できません。
系図には、吉松家が恵蘇八幡宮の大宮司を務めたとあります。また、九州へ下向して筑前一帯を荘園として開発したとされる大蔵春実から、朝倉郷を恵蘇八幡宮の「神領」として寄進され、吉松家が朝倉郷長となったと記します。ただし、古代・中世の記述は後世の系図による部分が大きく、個別の検証が必要です。
系図では、吉松定元の娘が秋月種照に嫁ぎ、その次男・定助が吉松家の養子になったとされます。その後、名前に秋月氏と共通する「種」の字が使われます。年次や続柄には未確認の点があります。
秋月氏が日向国へ移された1587年前後に、吉松家の一部は宮野に残り、別の一部は筑後川沿いの田中へ移ったと系図は伝えます。後世の記録では、宮野の系統は祭祀、田中の系統は村役を担っています。最初から計画された分家だったかは確認できません。
吉松種政の系図書写、吉松種重の工事管理、吉松種熙の水車模型、吉松直江・吉松春渚らの医療活動が記録されています。明治期に入ると、宮野吉松家は神職を終え、田中吉松家は杷木へ移住して医業を開業し、時代の変化に合わせて地域での役割を変えました。
西日本大水害後、吉松義典、吉松道哉、吉松隆太郎らが墓地・系図を調査しました。2024年以降は墓碑・石祠・地域史料を再照合しています。
系図では、もとは宮野を拠点とした吉松家の一部が1587年前後に田中へ移り、その後、田中の系統から杷木・博多などへ移った家があったと整理されています。宮野に残った側にも、吉松林作に続くと考えられる別系統があります。本サイトではこれらをまとめて「朝倉吉松家」と呼びます。「本家」「分家」は資料整理上の呼び方で、現在の家族間の上下関係を示すものではありません。
恵蘇八幡宮や宮野神社の祭祀に関する家伝、宮野墓地、荒神祠の刻字が調査の中心です。
村役と堀川用水工事への関与が記録されます。1953年水害後の墓地調査も重要です。
系図では吉松勘助の時代に杷木池田へ移ったとされ、その後の医療活動が記されています。
吉松種熙の系統とされ、吉松直江による系図整理、吉松春渚らの医療活動が文献に見えます。
吉松和作から吉松和助・吉松倉吉への関係は戸籍・墓碑で確認できます。吉松林作との接続は作業仮説です。
| 論点 | 現在の整理 | 主な根拠 | 残る課題 |
|---|---|---|---|
| 661年起源 | 家伝 | 吉松系図・吉松系譜 | 同時代史料が未確認 |
| 中臣・卜部との関係 | 仮説 | 系譜記述・通字・神社由緒 | 直接の系譜接続がない |
| 1587年の役割分化 | 分析 | 系図・後世の職掌記録 | 計画的分割かは不明 |
| 吉松種昔の父・後継関係 | 中心仮説 | 墓碑・年代・戸籍 | 養子記録と実父記録がない |
| 吉松種熙と三連水車 | 模型は墓碑記録 | 墓碑銘・地域史料 | 完成水車への影響は不明 |
家の記録だけで結論を出さず、性格の異なる資料を並べ、合う点と食い違う点を確認します。
家がどのように由緒や続柄を伝えてきたかを読む。
人名、生没年、続柄、場所を確認できる物証を読む。
同時代史料や地域全体の出来事と照合する。
成立時期、記した人、目的、同時代性、矛盾の有無を確認
複数の資料や物証で確認できる
家に伝わるが外部確認は未了
資料を説明する候補として提示
現資料では判断できない
史料上、吉松家の人々は、時期や系統によって祭祀、村落行政、治水、医療、記録整理などに関わったとされます。それぞれの根拠と確度を分けて確認します。
系図に記された役割と、
外部史料で確認できる事項を照合する。
未確認の点は仮説として示す。
外部史料で確認できる事実、家伝、口承、著者の分析・仮説を明示的に区別します。
なぜその選択が必要だったのかを、朝倉・九州・日本史の変化と重ねて説明します。
分からないことを隠さず、次世代が調査を引き継げる問いとして保存します。
記述の根拠と、調査上の位置づけを分けて確認できます。
家伝では、吉松家の始まりを661年の祭祀と結びつけ、恵蘇八幡宮や宮野神社との関係を記します。
戦国期の系図に百官名「民部」が現れ、近世の田中吉松家には保正・庄屋を務めた記録が残ります。
田中吉松家には、新堀川工事の人員管理と水車模型に関する記録が残ります。
杷木・博多などへ移った人物のなかに、漢方や近代医学に携わった人が確認できます。
系図の書写、墓地調査、刊行物の作成を経て、現在は史料をデジタルで整理しています。
年表は「確定した出来事」だけではなく、家伝・物証・分析・仮説をラベルで区別しています。
遠隔地の土器や支石墓、平塚川添遺跡などから、朝倉は古くから外部世界と接続する政治・物流拠点だったと捉える。
主な根拠:平塚川添遺跡などの考古資料・地域史家伝では、斉明天皇の百済救援に伴い定家が祭祀を担い、恵蘇八幡宮の祠官となったとされる。古代部分は伝承・仮説として慎重に扱う。
主な根拠:『吉松系図』『吉松系譜』(家伝)663年の白村江の戦いの後、北部九州では水城・大野城の築造や防人の配置が進みました。これは当時の地域背景であり、吉松家の活動を直接確認する記録ではありません。
主な根拠:『日本書紀』新たに開墾した土地の私有を認める制度が始まり、土地支配のあり方が変化しました。吉松家や神領との直接の関係は確認できていません。
主な根拠:墾田永年私財法と地域史系図には、大蔵春実が恵蘇八幡宮を崇敬し、第10代・吉松定政が神社に関係する土地「免上地」七百余町の寄進を受けたとあります。同時代史料による確認はできていません。
主な根拠:『吉松系図』『吉松系譜』(家伝)源平合戦後、原田氏の勢力が後退し、朝倉では秋月氏や地頭の星野氏が重要になります。吉松家と両氏の関係は、主に後世の系図・地域史料から検討します。
主な根拠:地域史・系図記述(分析)系図では、秋月種照の子・吉松定助が「種」の字を受け、吉松種助へ改名したとされる。ただし、系図上の生年と改名年には整合しない点があり、年次は追加検証が必要である。
主な根拠:『吉松系図』『恵蘇八幡宮御縁起』家伝では、古賀新左衛門が吉松種家を頼って須川に住み、その後、古賀氏が領主と村をつなぐ触口や文書を担う筆役などに就いたとされます。
主な根拠:家伝・地域史『吉松系図』では、吉松種家の代から通称に「民部」が使われます。民部は行政に関係する官職名ですが、この通称だけで吉松家の実際の職務が変わったとは確定できません。
主な根拠:『吉松系図』(百官名記載)1587年の秋月氏移封と太閤検地の前後に、吉松家の一部は宮野に残り、別の一部は筑後川沿いの田中へ移ったと系図は伝えます。後世の記録では、宮野に残った系統は祭祀、田中へ移った系統は村役を担っています。ただし、この分かれ方が最初から計画されていたかは確認できません。
主な根拠:系図・地域史(分析)後世の『吉松系図』の欄外には、吉松種政が1668年に古い系図を書き写したとする記録があります。種政自筆本の現物と、現存系図との詳しい関係は未確認です。
主な根拠:『吉松系図』欄外記録吉田定俊が編纂した『恵蘇八幡宮御縁起』の末尾に、吉松種政が左座祠官として署名しています。系図と縁起で異なる記述があるため、成立過程の比較が必要です。
主な根拠:『恵蘇八幡宮御縁起』下巻『吉松系図』には、田中村庄屋・吉松種重が「井手所御仕調」として工事の人員・労務管理に関わったと記される。1761年に没したが、工事との因果関係は確認できない。
主な根拠:『吉松系図』宮野の屋敷に種徳が荒神を鎮座。石祠の刻字は、2024年以降の調査で参照された物証の一つです。
主な根拠:宮野の荒神祠刻字現存する『吉松系図』の継承線が、吉松種煕の四女・吉松直江へつながる描き方になっていることなどから、直江が系図を整理した可能性があります。編纂者を直接示す署名は未確認です。
主な根拠:『吉松系図』の朱線・記載範囲(仮説)吉松種煕が73歳で没した。墓碑銘には、水車模型を郡役所へ提出したことと、没後に家へ金一封が下されたことが記されている。
主な根拠:吉松種煕墓碑銘朝闇神社石祠と香椎宮奉幣使の記録に『吉松駿河』『吉松但馬』が現れるが、その後の動向と墓所は不明。
主な根拠:1853年朝闇神社石祠・1864年奉幣使記録明治政府は受領名・官名の使用を禁じた。吉松駿河・吉松但馬の実名やその後の動向を直接示すものではない。
主な根拠:明治初期の制度改革(論文参照)系図・戸籍・人物誌には、杷木や博多などへ移った吉松直江、吉松春渚、吉松景山、吉松知太郎、吉松重實らが医療に携わったと記されています。すべての系統が同じ時期に医療へ移ったという意味ではありません。
主な根拠:戸籍・人物誌・系図田中地区の吉松家墓地が流失・埋没し、一部の墓碑情報が失われた。
主な根拠:災害記録・田中吉松家墓地調査資料過去帳と墓碑を照合し、『釈浄玄』『種方』などの刻字を確認。『吉松家先祖之墓地発見記』へ記録した。
主な根拠:『吉松家先祖之墓地発見記』九州歴史資料館による第1〜3次発掘調査報告が刊行された。伝承地を考古学的に検討する基礎資料だが、宮殿所在地を確定するものではない。
主な根拠:九州歴史資料館 第1〜3次発掘調査報告吉松隆太郎が保管した巻物と、吉松道哉らの調査資料を照合し、2001年に『吉松家系図解読』として整理した。
主な根拠:『吉松家系図解読』・関係者記録坂田拓也が墓碑、石祠、系図、地域史料の照合を進め、調査結果を公開版として整理した。
主な根拠:2024年以降の墓碑・石祠・地域史料調査系図では、1587年前後に吉松家の一部が宮野に残り、別の一部が田中へ移ったとされます。その後、田中の系統から杷木・博多などへ移った家があり、宮野側にも本流と傍系が残ったと整理されています。以下では、史料上の呼び方に沿って各系統を分けて示します。
横方向にスクロールして系譜を確認できます
種仲 → 種為 → 種治 → 種真 → 種義 → 種重 → 種存 → 種方 → 勘助 → 景山。保正・庄屋から治水、さらに杷木の医療へ。
種煕の系統。直江による系図整理、春渚らの医療活動を経て、大阪へも展開。
林作 → 和作 → 和助 → 倉吉 → 弥一郎 → 秀光。現代の宮野吉松姓はこの系統の末裔と考えられる。
種親 → 種祐 → 種宣 → 種章。『吉松系譜』を中心に確認されるが、続柄・代数に課題を残す。
種嗣 → 種友。宮野・烏集院の保正を担った後、筑後へ移住したと伝わる。
1587年、秋月氏の日向移封に従った吉松氏と朝倉吉松家の関連が推測されるが、直接の系譜接続は未確認。
宮野吉松家墓地の刻字、法名、続柄メモ、戸籍、文献を照合した最新版です。確定系図ではなく、確認できる関係と作業仮説を分けて示します。
吉松 種昔は家の位置づけとして本流側に置きます。一方、血縁上は吉松 林作の子で、子のない吉松 種一の後継として本流へ入った可能性を中心仮説とします。
生年差による概算です。誕生日が不明なため、実際の満年齢は表示より1歳若い場合があります。
1763年生。吉松 種昔とは生年差が14年です。兄であった可能性も、のちに養親・後継元となった可能性も、年代上は成立します。
1732年生。吉松 種昔とは生年差が45年です。父であることは年代上可能ですが、実父と記す直接史料はまだ確認できません。
1749年生。墓碑に「吉松林作妻」とあり、吉松 種昔とは生年差が28年です。「種昔母」と記す直接史料は未確認です。
1728年生。吉松 種昔とは生年差が49年です。父であることは年代上可能ですが、両者を親子とする直接史料は未確認です。
年齢から分かること吉松 種一を兄または養親側、吉松 林作と釈妙覚信女を父母候補、または吉松 種徳を実父候補とみる各案は、いずれも年代上は成立します。ただし、吉松 種徳を父とする案では母候補を特定できず、年齢も算出できません。年齢比較は候補を整理する手掛かりにはなりますが、親子・養子関係の確定には過去帳、位牌、養子記録などの追加史料が必要です。
吉松 種晟、吉松 種徳=吉松但馬定恒とみられる人物、吉松 伊六、吉松 種一、吉松 種昔、吉松 林作、吉松 和作、吉松 和助、吉松 倉吉など。生没年と続柄の一部を確認できます。
吉松 和作が吉松 和助の父であることを戸籍で確認。吉松 和助から長男・吉松 倉吉へ続く関係は、墓碑情報とも整合します。
吉松 種昔の実父、吉松 種一との養子関係、吉松 駿河・吉松 但馬父子の実名・墓所、吉松 林作と吉松 種晟・吉松 種徳の続柄は追加調査が必要です。
横方向にスクロールして確認できます。破線表示は推定関係です。
墓碑に「吉松和泉種徳惣領」。本来の跡取りとみられますが、幼くして亡くなりました。
本流上の位置と血縁上の推定を同じ線で表さず、別々の仮説として扱います。
種一に子がなかったため、近親の林作家から種昔を迎え、本流の後継としたという整理です。墓碑・年代・戸籍情報を最も無理なく接続しますが、養子記録は未確認です。
年代上は成立し、「但馬」と「種」の字も説明できます。今後、過去帳や位牌などで実父が確認されれば見直します。
年代上は成立しますが、二人が順に本流へ入る二段階の養子継承を想定するため、現時点では中心仮説より複雑です。
1853年の朝闇神社石祠に「大宮司吉松駿河正」、1864年の記録に吉松駿河・吉松但馬の名が見えます。
幕末・明治期の神職制度再編の中で宮野を離れ、他所で没した可能性があります。移住先・没地・墓所は未確認です。
地域で宮野の吉松家を「タジマさん」の親族として認識した口承があります。直系関係を確認できる史料ではありません。
和三郎の墓石の性格、栄三本人の墓石が未確認であることなどから、現在は候補から後退させています。
整理資料:宮野吉松家墓地刻字メモ、戸籍情報、『吉松系図』『吉松系譜』、朝闇神社石祠、香椎宮奉幣使関係記録、地域聞き取り。今後の確認対象:過去帳、位牌、墓碑裏面、他所墓地、神社関係文書。
2026年7月15日提供の更新版に基づき、宮野本家の世代・氏名・備考を一覧化しました。古代から近世の記述には家伝・系図上の情報を含み、墓碑・文献で確認できる事項とは区別してお読みください。
| 世代 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|
| 初代 | 吉松 定家 | 朝廷で神祇官として中臣氏に仕えた卜部定家だった可能性がある。 |
| 2代 | 吉松 定明 | — |
| 3代 | 吉松 定秀 | — |
| 4代 | 吉松 定友 | — |
| 5代 | 吉松 定實 | — |
| 6代 | 吉松 定則 | — |
| 7代 | 吉松 定義 | — |
| 8代 | 吉松 定満 | — |
| 9代 | 吉松 定信 | — |
| 10代 | 吉松 定政 | 大蔵春実から免上地の寄進を受け、朝倉郷長となったとする記述。 斉明天皇・天智天皇による恵蘇八幡宮合祭と、老松三所大明神の合祭に関する記述。 |
| 11代 | 吉松 定利 | — |
| 12代 | 吉松 定栄 | — |
| 13代 | 吉松 定次 | — |
| 14代 | 吉松 定経 | — |
| 15代 | 吉松 定代 | — |
| 16代 | 吉松 定宜 | — |
| 17代 | 吉松 定房 | — |
| 18代 | 吉松 定方 | — |
| 19代 | 吉松 定光 | — |
| 20代 | 吉松 定雄 | — |
| 21代 | 吉松 定延 | — |
| 22代 | 吉松 定連 | — |
| 23代 | 吉松 定道 | — |
| 24代 | 吉松 定以 | — |
| 25代 | 吉松 定生 | — |
| 26代 | 吉松 定元 | 娘が秋月種照と婚姻したとする系図上の記述。 |
| 27代 | 吉松 種助 | 秋月種照の次男が養子として吉松家に入ったとする。 本姓は定助で、後に種助へ改名。 官名:式部 |
| 28代 | 吉松 種氏 | 官名:式部 |
| 29代 | 吉松 種義 | 官名:式部 |
| 30代 | 吉松 種秀 | 官名:式部 |
| 31代 | 吉松 種家 | 官名:民部 古賀新左衛門を須川に受け入れた可能性がある。 秋月氏の宮崎移封に従い、子・種良を残して秋月へ移住した可能性がある。 |
| 32代 | 吉松 種良 | 官名:民部 1587年の豊臣秀吉による九州平定期、朝倉の支配構造が変わるなかで家の対応を担ったとする整理。 弟・種栄に宮野村で宮野神社の宮司職を残し、種良自身は子・種仲を連れて田中村へ移住したとする。 |
| 33代 | 吉松 種栄 | 種家の次男だが、兄・種良の猶子だった形跡があるため、実質33代と評価する。 官名:式部 |
| 34代 | 吉松 種定 | 官名:式部仁左エ門 福岡藩の免方役として吉松家を外れ、福岡へ移住したとみられる。 |
| 34代中継 | 吉松 種経 | 官名:左次兵衛 種定の弟と評価する。種定が福岡へ移住し、子・種政が幼かったため、種経が中継として35代を担ったとする整理。 |
| 35代 | 吉松 種政 | 官名:修理 種定の嫡男。 |
| 36代 | 吉松 種次 | 官名:但馬 |
| 37代 | 吉松 種生 | 官名:壱岐 |
| 38代 | 吉松 種晟 | 官名:主殿 明和4年(1767年)没。墓石の刻字で確認できる。没年は子・種徳による荒神鎮座(同年)と一致し、家督継承と荒神鎮座が連動した可能性がある。 |
| 39代 | 吉松 種徳 | 官名:但馬 墓石には「吉松定恒」とあり、晩年は定恒を名乗った可能性がある。 明和4年(1767年)、中宮野で荒神を鎮座したとする。 |
| 40代 | 吉松 種一 | 官名:但馬 男子がおらず、いとこの種昔を養子として受け入れた可能性がある。 |
| 41代 | 吉松 種昔 | 官名:但馬 1777年生、1847年没。種一に子がなかったため、本流後継候補として養子に入った可能性がある。 血縁上は林作の子候補(有力仮説)で、系図上は種一の養子・後継候補として本流に位置づける。 |
| 42代候補 | 吉松◯◯(氏名不明) | 官名:駿河 文献上で存在を確認。種昔の子候補。1853年(嘉永6年)の朝闇神社石祠に「大宮司 吉松駿河正」の名が刻まれる。 墓石は未確認。神職廃止に伴う社会変動のなかで宮野を離れた可能性がある。 |
| 43代候補 | 吉松◯◯(氏名不明) | 官名:但馬 文献上で存在を確認。種昔の孫候補・駿河の子候補。1864年(元治元年)の香椎宮奉幣使行列参加記録に「吉松駿河」「吉松但馬」の名が確認される。 墓石は未確認。 |
※「可能性」「候補」「とする」は、現時点の系図整理・仮説を示します。続柄・代数・移住経緯は、今後の史料確認で更新される可能性があります。
当主だけでなく、系図を整理したとされる人、墓地を調査した人、地域の口承を記録した人も掲載します。
斉明天皇の朝倉行幸に伴う異国降伏祭祀を担ったとされる始祖。卜部・中臣系祭祀官僚説と、英彦山系社人説が検討される。
伝承・仮説大蔵春実と連携し、恵蘇八幡宮の合祀、老松三社大明神体制、免上地七百余町の伝承に登場。
家伝娘が秋月種照と婚姻したとされ、秋月氏との結びつきが家名・通字を変える契機となる。
家伝秋月種照の次男が養子として入家したとされ、『定』から『種』への転換を象徴。百官名は式部。
家伝百官名『民部』。古賀新左衛門を受け入れ、祭祀中心の家から行政実務へ転換する時期の当主。
家伝・分析1587年以後、神職と行政を分け、田中村の保正・郷代官へ適応。役割分化が見える時期の人物。
家伝・分析種良の弟・猶子とされ、宮野に残って祭祀機能と総大宮司職を継いだ。
家伝1668年に旧系図を書写したとされ、1682年『恵蘇八幡宮御縁起』に左座祠官として署名。
史料田中村庄屋。1759〜1760年の新堀川難工事を指揮し、翌1761年に死去したと伝わる。
家伝・墓碑三連水車につながる水車模型を考案したと伝わる。完成した水車への影響の程度は未確認。
墓碑・伝承1767年に荒神を鎮座。『種』字から離れた人物とされ、秋月氏由来のアイデンティティからの転換を象徴。
石祠・墓碑1777年生、1847年没。種一の後継候補。林作の子で本流に入ったとする仮説がある。
墓碑・仮説1853年の朝闇神社石祠に大宮司として刻まれる。実名・移住先・墓所は未解明。
石刻1864年の香椎宮奉幣使行列記録に名が見える。駿河の子とする可能性が検討される。
記録『吉松系図』の編者候補とされる医師。香川流の医術を学び、福岡で診療したと伝わる。
人物誌・仮説吉松 直江から医術を学んだとされる産婦人科医。仙厓との交流や狐の難産説話が伝わる。
人物誌・伝承田中村から杷木池田へ移住したとされ、後の世代に医業に携わる人物が確認される。
家伝漢方医として『杏仁堂』を営み、地域医療を担ったとされる。
家伝蘭学を学び、杷木吉松家の医学を近代化へ接続した。
家伝長崎で近代医学を学び、三代にわたり医業に携わったとされる。
家伝1955年、泥に埋もれた田中墓地を再発見し、過去帳・墓碑・系図を照合した。
調査記録義典の資料を受け継ぎ、隆太郎と共同で『吉松家系図解読』を完成。
刊行物母から託された『吉松系図』を約50年間守り、道哉との共同解読に提供。
刊行物宮野の墓碑、口承、荒神祠を調査し、『政幸資料』として記録を残した。
調査資料2024年から調査を始め、家伝、墓碑、地域史料、時代背景を照合して公開資料を作成している。
現代調査墓碑に「吉松林作妻」。吉松 林作を吉松 種昔の父とみる中心仮説では、種昔の母候補となりますが、母子関係を直接記す史料は未確認です。
墓碑・推定墓碑に「吉松和泉種徳惣領」。種徳の跡取りとみられますが、幼くして亡くなりました。
墓碑種徳の弟候補で、種昔・和作の父候補。本流を補完した近親家流として検討します。
墓碑・推定和助の父。林作の子、種昔の弟候補ですが、種昔の家を継いだ人物ではありません。
戸籍・墓碑・推定戸籍で和作の子、墓碑で倉吉の父と確認できる、近代側の系統をつなぐ人物です。
戸籍・墓碑墓碑に和助の長男と記されます。宮野に残った近代吉松家筋の一人です。
墓碑一時は駿河候補と考えられましたが、墓石の性格などから現在は可能性が低いと判断します。
墓碑・再検討和三郎の長男として記録されますが、本人の墓石は未確認です。但馬候補からは後退させています。
墓碑記載・未確認神社、村、用水、墓地、移住先を、関係する人物と史料に結びつけて紹介します。場所によって確認できる活動と史料の種類は異なります。

系図・縁起に、吉松家の始祖伝承や大宮司職との関係が記される神社です。
中臣鎌足に結びつく創建伝承、宮野吉松家墓地、1767年銘の荒神祠が残ります。
田中吉松家が保正・庄屋を務めたとする記録があり、1953年水害後に墓地調査が行われました。
吉松種重の工事関与と吉松種煕の水車模型に関する記録があります。完成した水車との直接の技術的関係は未確認です。
系図・人物誌には、杷木・博多・大阪へ移り、医療に携わった吉松家の人物が記されています。
研究論文で関連を検討する神社
系図、墓碑、神社縁起、口伝、地域史料は、それぞれ成立時期と記録目的が異なります。資料の性格と外部史料との一致・不一致を確認し、どこまで言えるかを示します。
宮野・田中など分家を含む。赤い継承線が種煕の四女へ至る点から、直江編纂説が提示される。
東京大学史料編纂所所蔵。久米邦武採訪写本。宮野本家を中心に記す。原本と採訪経緯は書誌上の追加確認が必要。
1668年の書写記録が伝わるが、現物は未確認。底本の成立時期も確定していない。
吉田定俊編。巻末に吉松種政が左座祠官として署名。家伝との相違も含めて検証対象。
当主名、没年、法名、親子関係を確認する物証。系図の空白を補う。
種徳の荒神鎮座と、最後期の大宮司・吉松駿河の名を伝える。
田中墓地の再発見、教念寺過去帳との照合過程を記録。
宮野の墓碑・口伝・現地情報を生活者の視点から保存した資料群。
吉松 道哉、吉松 隆太郎、吉松 静子らが系図解読と現地調査をまとめた2001年の刊行物。
日本書紀、朝倉町史、朝倉紀聞、筑前国続風土記、筑紫史談などと照合する。



画像を選ぶと、大きなサイズで確認できます。写真・調査表の記述は、それだけで系譜を確定するものではなく、墓碑・戸籍・文献との照合に用います。





661年の朝倉橘広庭宮は『日本書紀』に記されます。一方、その後の地域史を一つの家の記録だけで連続的に説明することはできません。本サイトは、吉松家に伝わる系図を入口に、墓碑、神社縁起、地域史料、近現代の調査記録を照合し、朝倉の一地域史を検討します。
福岡県朝倉市宮野地区に伝わる吉松家の系図と関連資料を整理し、確認できる事実、家伝、口承、分析、仮説を分けて公開することです。家の古さや価値を証明することではなく、根拠と未確認事項を次の調査に引き継ぐことを重視します。
本サイトでは、宮野を起点とする吉松家と、後世に田中、杷木、博多などへ広がったと整理される家流をまとめて「朝倉吉松家」と呼びます。これは本サイト上の整理名称であり、現在の家族間の組織や上下関係を示すものではありません。
成立時期、著者、伝来経路が確定していない箇所は、そのまま課題として示します。
初代から宮野・田中・博多側の系譜を記す。1820年前後に吉松 直江が整理したとする説がありますが、編纂者を示す署名などは未確認です。1668年の吉松 種政による書写記録との関係を検討します。
吉松 道哉、吉松 隆太郎、吉松 静子らによる系図解読と現地調査をまとめた2001年の刊行物。提供情報では限定200部の非売品とされます。後続研究の基礎資料として、推測箇所も含めて再検証します。
東京大学史料編纂所所蔵。宮野吉松家を中心とする記述を含みます。原本の著者、児玉韞旧蔵とされる経緯、久米邦武の採訪過程は、目録・原本画像による追加確認が必要です。
『日本書紀』『朝倉風土記』『朝倉町史』『聖蹟と朝倉』、神社縁起、寺院過去帳、災害史などを参照します。後世の編纂物は、記された時代と成立した時代を分けて読みます。
吉松家の起源を661年の朝倉行幸だけで説明せず、平安期に英彦山から来た社人が朝闇神社の社事を担ったという地域史料の記述も、別の手掛かりとして紹介します。
『筑紫史談』第13集・6コマには、朝闇神社の位置がかつて豊前彦山の社領に属し、「彦山より吉松某なる社人来りて社事を掌りし頃、朝闇神社を改めたる跡」とする記述があります。
この文は、村民の伝説や『朝倉紀聞』『続風土記』を踏まえた後世の説明です。吉松家の人物名、来訪年、社務の継承を同時代史料で確認したものではありません。
研究論文では、661年の斉明天皇朝倉行幸に結びつく起源伝承に加え、平安期の彦山・大行事社ネットワークから社司が移った可能性を補助仮説として扱っています。二つの記憶が後世に結び付けられた可能性もあり、どちらか一方を確定起源とはしません。
今後は、英彦山の社領・大行事社関係文書、朝闇神社の由緒、地名・祭祀職の記録を照合する必要があります。
「蓋し此地、豐前彦山の社領に屬せしが、彦山より吉松某なる社人來りて社事を掌りし頃、朝闇神社を改めたる也といふ。」『筑紫史談』第13集・6コマ/提供された原文の引用
複写資料をそのまま確認できます。PDFは研究論文ではなく、系図・系譜史料の公開用複写です。
『吉松系譜』(東京大学史料編纂所所蔵)
東京大学史料編纂所「所蔵史料目録データベース(Hi-CAT)」公開画像
Hi-CATで原資料情報・公開画像を確認する
ここで示すのは功績の序列ではなく、現在の調査にどの資料が引き継がれたかという経過です。
古い系図を書写し直したとする欄外記録が、後世の『吉松系図』に引用されています。種政自筆本の現物は未確認です。
現存系図を整理した人物とする説があります。系図の赤線や記載範囲が根拠ですが、編纂者を直接示す記録は未確認です。
田中吉松家墓地を調査し、教念寺過去帳、墓碑、系図の記述を照合した記録を残しました。
平川 亮一の仲介や平川家に伝わった系図を含む資料をもとに共同調査を行い、『吉松家系図解読』をまとめました。
宮野墓地の見取図、墓碑銘一覧、少年期に聞いた口承を資料として残しました。口承と墓碑の読取りを分けて参照します。
墓碑、石祠、系図、地域史料を再照合し、本サイトと研究論文へ整理しています。

1994年11月11日生。宮野吉松家・吉松 弥一郎の曾孫。2000年から宮野吉松家墓石群と荒神祠に近い土地で育ち、2024年以降、家伝・墓碑・地域史料の照合を進めています。家系整理上は47代相当と位置づけていますが、古代からの代数と直系関係が歴史的に確定したことを意味しません。
本サイトは、歴史的に完全に証明された血統書ではありません。とくに古代から中世前半は、後世の系図や縁起に依存する部分が大きく、「このような由緒が伝えられてきた」という水準で読む必要があります。新しい史料や研究によって、内容と系図整理は更新されます。
原則として、2000年時点で存命の方の個人情報は掲載しません。本人・権利者が公開を認めた情報、公刊資料の著者情報などは例外とします。
現在の史料だけでは確認できない事項と、追加調査に必要な資料を整理します。
卜部・中臣系の中央祭祀官僚か、朝倉で現地採用された祭祀者か、英彦山系の大行事社管理者か。
祭祀空間と古墳の関係を、考古学・地形・地域伝承から再検証する必要がある。
系譜に見える「卜部定澄五世的傳」と、定家の出自・通字「定」の関係は未確定。
古代・中世部分には一次史料が乏しく、家が自らをどう理解したかという記憶史として読む必要がある。
672年説、941年頃説など、縁起・系図・周辺神社由緒の間に差異がある。
1853年・1864年の記録以後、墓碑も居所も確認できない。明治の神社制度再編との関係が課題。
英彦山大行事社の社人と朝倉吉松家を直接結ぶ史料はなく、同名異族の可能性も残る。
秋月氏移封に従った伝承は符合するが、朝倉系譜との接続を示す一次史料が必要。
本サイトの基礎となる2026年6月版の研究論文を、章・節・段落の構造に沿って掲載しています。論文中の史料解釈は、公開後の追加調査を反映した各セクションの「現在の整理」と異なる場合があります。
研究論文 / 2026年6月
―吉松系図の解読と時代背景との照合を中心に―
公開版では、史実関係を変えない範囲で、比喩、礼賛的な評価、根拠に対して強すぎる断定を抑える編集を行っています。系図・家伝・仮説は、外部史料で確認された事実とは区別してお読みください。
上の「墓碑と戸籍から、種昔以後を整理する」は論文完成後の追加整理です。論文本文には、種昔以後の代数などに以前の整理が残る箇所があります。
本研究の目的は、福岡県朝倉地域の吉松家について、系図・墓碑・地域史料に見える役割の変化を検討することにある。もっとも、古代部分については一次史料による裏付けが十分ではないため、本稿では系図・縁起・墓碑・口伝を、確定史実としてではなく、吉松家が自らの出自と役割をどのように理解し、後世へ伝えようとしたかを示す史料として慎重に扱う。
日本史研究、とりわけ地方史研究において、中央政権の動向がいかに地方社会へ波及したかを論じる視座は重要である。しかし、従来の地方史研究は、国司や守護、戦国大名といった支配者層の政治史に偏重する傾向があり、在地において実務や祭祀を担い続けた中間層・在地勢力の長期的動向を、単一の家系を通じて通時的に検証する試みは必ずしも多くはない。
系図は吉松家の起源を661年の朝倉行幸と結びつけるが、古代・中世部分を確認できる同時代史料は乏しい。近世以降には、墓碑や地域史料から庄屋・保正・神職などの役割が確認できる人物がいる。
本研究の意義は、以下の三点に集約される。
第一に、各時期の史料に見える祭祀、村落行政、治水、医療などの役割を時系列に整理する。
第二に、秋月氏・古賀氏などとの関係を示す史料を確認し、後世の家譜による評価と当時の政治関係を区別する。
第三に、系図編纂、縁起作成、水害後の墓地調査など、家に関する記録が作成・更新された経緯を検討する。
本研究の研究対象は、福岡県朝倉地域(旧上座郡)を拠点とした吉松家である。分析にあたっては、同家に伝わる系図(吉松系図・吉松系譜)および関連する縁起類を主要な史料としつつ、次の四つの視角から考察を行う。
朝倉地域は、筑後川という物流の主要な交通路を有し、古代より交通の要衝かつ天然の要害として機能してきた。この地政学的条件は、斉明天皇の行幸や「朝倉橘広庭宮」の造営を招き、吉松家の始祖・定家が登場する舞台を形成した。本研究では、朝倉を閉鎖的な山間部としてではなく、外部勢力や文物が流入する「開かれた土地」として捉え、その環境がいかに吉松家の性格を規定したかを分析する。
吉松家は、当初「卜部」や「中臣」といった中央祭祀氏族との関連性が示唆される存在として登場し、やがて恵蘇八幡宮等の祭祀権を背景に「免上地七百余町」とも称される神領の名目上の領主となったとされる。平安・鎌倉期の武家社会の台頭の中で、この宗教的権威がいかにして大蔵氏(原田氏・秋月氏)などの軍事権門と結びつき、あるいは対立・融合していったかを検証する。特に、秋月氏からの「種」字拝領や「式部」から「民部」への百官名変更に見られる、祭祀職から実務行政職への変質過程に注目する。
1587年前後に宮野側と田中側で異なる役割が記録される。これが吉松種良による計画的な分割だったかは確認できないため、結果として生じた役割分化として扱う。
さらに、在地交渉を担う「触口」としての古賀氏との盟約など、機能を外部化・共有化することで地域支配の安定を図った構造を明らかにする。
以上の視点から、家伝史料と地域史料を時系列に照合する。
本研究で用いる史料・文献は、性格に応じて以下の三群に分けられる。
第一は、吉松家内部に伝わる系図・系譜・墓碑・口伝である。具体的には、『吉松系図(直江系図)』、『吉松系譜』、宮野吉松家墓碑銘、田中吉松家墓碑銘、『吉松家系図解読』、義典調査メモ、政幸資料などである。これらは本研究の中核史料であるが、家の正統性や記憶の継承を目的として作成された可能性が高いため、記述内容をそのまま事実とみなすのではなく、他史料との照合を必要とする。
第二は、朝倉地域および恵蘇八幡宮に関する地域史料である。『朝倉町史』『朝倉風土記』『朝倉紀聞』『筑前国続風土記』『聖蹟と朝倉』『恵蘇八幡宮御縁起』などがこれにあたる。
第三は、日本古代史・中世史・宗教史の文脈を補う研究文献である。『日本書紀』をはじめ、八幡信仰、社家制度、秋月氏・大蔵氏、近世宗教政策に関する先行研究を参照し、吉松家内部史料の記述を時代背景の中に位置づける。
『吉松系図(直江系図)』吉松直江編、1820年頃成立推定
『吉松家系図解読』吉松道哉・吉松隆太郎・吉松静子、あざみ書房、2001年
『吉松系譜』東京大学史料編纂所所蔵
宮野吉松家墓碑銘、江戸時代、宮野地区所在
『日本書紀』
『恵蘇八幡宮御縁起』吉田定俊、天和二年(1682)、恵蘇八幡宮蔵
『秋月家から見た九州の歴史』石井秀夫・伊藤久編
『聖蹟と朝倉』福岡県朝倉郡学校長会聖蹟調査委員会 編纂 朝倉郡学校長会, 昭和8
『朝倉町史』
『朝倉風土記』古賀益城 編 聚海書林, 1984.9
『朝倉紀聞』古賀仁右衛門高重、元禄7年(1694年)成立
『筑前国続風土記拾遺 中巻』青柳種信 編著[他] 文献出版, 1993.5
『中世九州社会史の研究』外山幹夫
『八幡信仰史の研究』中野幡能、吉川弘文館、1967年
『八幡神とはなにか』飯沼賢司、角川選書、2004年
『近世の朝廷と宗教』高埜利彦、吉川弘文館、2014年
『姓氏家系大辞典』太田亮、角川書店、1963年(復刻版)
『古代氏族系譜集成 下巻』 宝賀寿男 編著 古代氏族研究会, 1986.4
『最新史観国史教育 第4巻 第6号』 国史教育学会 編 文化書房, 昭12至15
『筑前名家人物志』 森政太郎 文献出版 1979.5
『優秀児童家系調査』日本学術振興会 編 丸善, 昭和20
『香椎宮奉幣使(藩制時代)についての記録 [1輯]』門司成重, 1988.5
『筑紫史談 13』筑紫史談会, 1917-06
など
本稿で主に参照する家伝史料は二つある。
一つは博多吉松家に伝わる『吉松系図』、もう一つは東京大学史料編纂所に所蔵される『吉松系譜』である。
『吉松系図』では、初代から吉松種熙の四女へ赤線が引かれている。この四女を吉松直江とみなし、編纂者とする説があるが、署名などの直接的な根拠は確認できていない。
『吉松系図』は複数の家流を記す。1668年の吉松種政による書写記録との関係が考えられるが、底本の成立時期は確定していない。
『吉松系図』は江戸後期までの家伝をまとめた史料として扱い、記述ごとに他史料との照合を行う必要がある。
もう一つの史料『吉松系譜』は、東京大学史料編纂所という公的な機関に所蔵されている。
この書物は、明治の歴史学者・久米邦武氏が採訪し写本を作成したもので、その原本は筑前国怡土郡(現在の糸島市)王丸村の児玉韞(こだまうん)氏が採集・所蔵していたとされる。
『吉松系図』が一族全体を扱っているのに対し、この『吉松系譜』は宮野吉松家(本家)の記述が中心的である。原本の著者は明記されておらず不明であるが、記述は詳しいが、著者と成立過程は確認できていない。
確認できる範囲では、これら二つの史料はいずれも1800年頃(寛政〜文化年間)までの当主までしか書かれてないことから、その頃に成立したと見られ、当主に補足する記述内容も多くが一致している。
ここで一つの仮説が浮かび上がる。この二つの系図は、どちらも吉松直江その人が執筆したものではないか、という可能性である。
もし著者が同一人物であるならば、なぜ二種類の系図を残す必要があったのか。それは「目的の違い」によるものと考えられる。
『吉松系図』は、朝倉から博多へ移住する予定の直江が、自らのアイデンティティを確認し、子孫に伝えるために「私的なルーツ」として編纂したもの。
『吉松系譜』の作成目的と伝来経路は未確認であり、本家の由緒を記録する性格を持つ可能性がある。
本研究で用いる史料、特に『吉松系図』および『吉松系譜』には、以下の史料論的課題がある。
系図は、血統の正統性を主張し、家の権威を高めるために作成されることが多く、史実の正確な記録を第一義とするものではない。特に江戸時代には、系図を粉飾・捏造する風潮があったことが指摘されている。
『吉松系図』および『吉松系譜』が記す7世紀の吉松定家から10世紀の吉松定政に至る系譜は、一次史料による裏付けを欠く。実際に、時代背景と照合すると通説と相違がある不可解な部分もいくつか見られ、これらは後世の伝承に基づくものも含まれ、歴史的事実として確定することは困難である。
『吉松系図』の底本となった種政写本は寛文8年(1668)の成立である。これは『寛政重修諸家譜』編纂(1798-1812)より約1世紀前であり、江戸後期の系図捏造ブームとは時期が異なる。この点は、史料の相対的な信頼性を高める要素となる。
以上を踏まえ、本研究では『吉松系図』および『吉松系譜』を「歴史的事実の完全な記録」としてではなく、「吉松家がどのように自らの歴史を理解し、後世に伝えようとしたかを示す史料」として位置づける。したがって、系図に記された内容と、他の史料や時代背景から推測される事実を、慎重に区別しながら論を進める。
朝倉地方の歴史研究においては、『朝倉町史』をはじめとする自治体史が基礎的な研究成果を提供している。また、恵蘇八幡宮に関しては、神社史・宗教史の観点からの研究が存在する。しかし、恵蘇八幡宮の祭祀を担った社家に焦点を当てた研究は、本調査の限り存在しない。
より広い文脈では、九州における八幡信仰の研究として、中野幡能『八幡信仰史の研究』(吉川弘文館、1967年)、飯沼賢司『八幡神とはなにか』(角川選書、2004年)などがあるが、在地社家の具体的な活動については十分に論じられていない。
また、戦国期から近世初頭にかけての社家の変容については、高埜利彦『近世の朝廷と宗教』(吉川弘文館、2014年)が全国的な視点から論じているが、地方の小規模な社家の事例研究は不足している。
本研究は、このような十分に論じられてこなかった点を検討するものとして、一つの在地社家の長期的な歴史を、可能な限り実証的に明らかにしようとするものである。
系図は吉松定家の登場を661年の斉明天皇行幸と結びつけるが、同時代史料では確認できない。以下では、家伝の背景として古代朝倉の地理と考古学的知見を整理する。
古代朝倉の交流と集落形成について、考古学的知見を確認する。これらは吉松家の起源を直接示す資料ではない。
朝倉地域における人類の活動は旧石器時代末期に遡り、縄文時代晩期には人口の増加が見られたことが遺跡の分布から確認されている。
確認しておきたいのは、この時期の朝倉が決して孤立した隠れ里ではなかったという事実である。遺跡からは遠隔地から持ち込まれた土器が出土しており、さらに朝鮮半島との交流を示す「支石墓(しせきぼ)」の存在も確認されている。
遠隔地系土器や支石墓は、朝倉地域が外部との交流を持っていたことを示す。661年の行幸地選定との直接的な因果関係は確認できない。
弥生時代に入り、大陸から稲作技術が導入されると、朝倉地域の社会構造は大きな変化を遂げた。富の蓄積は階層分化と集団間の緊張を生み出し、その結果として防御機能を持つ集落が出現する。その代表例が「平塚川添(ひらつかかわぞえ)遺跡」である。
平塚川添遺跡は複数の環濠を持つ集落である。集落の政治構造については考古学的な検討が必要である。
一部では、地名(山田)や出土遺物(鏡・鉄剣)の状況から、この地を「邪馬台国」の有力な候補地、あるいはそれに匹敵する一定規模の政治的集団の中心地であったとする説も提起されている。
いずれにせよ、吉松家が登場する数世紀前から、朝倉は政治的・軍事的な緊張感の中にあり、地域統合の核となる勢力が存在していた可能性がある。
古代における朝倉の地が重視された要因の一つは、その特異な地政学的条件に求められる。
第一に、筑後川の水運機能である。筑後川は有明海を通じて外洋と直結する物流の主要な交通路であり、大量の物資や人員の輸送を可能にするインフラとして機能していた。これにより、朝倉は内陸にありながらも、有明海を経由した海上交通へのアクセスを容易にしていたのである。
第二に、防御および退路確保に適した「後方基地」としての地形的特性である。朝倉宮は、敵の侵攻に対して無防備な最前線の博多湾岸(那大津)から約40キロメートル内陸に位置しており、敵の急襲を回避できる安全地帯であった。さらに確認しておきたいのは、この地が東の豊後(現在の大分県)方面へ抜ける陸路「豊後道」の結節点であったことである。このルートを確保することにより、万が一、博多湾や関門海峡が敵に封鎖された場合でも、陸路で豊後へ抜け、別府湾から瀬戸内海を通じて本国(近畿)との連絡線や退路を維持することが可能となる。
筑後川水運と豊後方面への陸路は、行幸地選定を考える際の地理的条件として検討できる。ただし選定理由を記す直接史料はなく、吉松家の起源との関係も未確認である。
661年の斉明天皇行幸は『日本書紀』に記される。吉松定家との関係は後世の系図に限られるため、本節では両者を区別して扱う。
645年の大化の改新以降、日本は唐帝国の脅威に対抗すべく、天皇を中心とする中央集権国家への脱皮を図っていた。土地と人民を国家の直接管理下に置く「公地公民」制の導入は、地方豪族を国郡の役人として再編し、国家的な軍事動員を可能にする基盤を整えた。
百済救援を背景に、斉明天皇は661年に筑紫へ移動した。行幸の規模と朝倉での施設配置には未確認の点が多い。
斉明天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)が大本営として選定したのが、朝倉の地であった。前節で述べた通り、筑後川による兵員・物資の輸送能力と、山岳に囲まれた防御性は、対外戦争の指揮所として最適の条件を備えていた。
この地に造営されたのが「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」である。
しかし、「朝倉橘広庭宮」にはいくつかの候補地がある。
1つ目は、旧朝倉村の宮野・須川地区の平野部である。この地は『朝倉紀聞』などで古くから宮の所在地として指摘されており、地元伝承が残る場所である。1973年には九州歴史資料館による「朝倉宮伝承地」の発掘調査が行われ、庭園の一部と思われる石敷遺構が確認されたものの、宮殿建物の重要な痕跡は発見されず、考古学的には未確認の状態にとどまっている。
2つ目は、志波地区である。『筑前国続風土記』に見られる説であり、麻氐良山を背後に、全面は筑後川に面した平野部が広がる地域である。遺構の発掘では、600年代の大きな建物の痕跡らしきものも見つかっている。また、麻氐良山の麓の集落は政所区と呼ばれており、過去にこの辺りに朝廷が置かれた痕跡が残る。
これらの諸説に対し、本稿では宮の所在地を一点に限定するのではなく、当時の軍事的状況を考慮した包括的な解釈をした立場を取る。
661年に朝倉へ到着した斉明天皇の率いた軍勢の規模は、筑紫行幸における道中の備中国での伝承「勝兵二万人」などから推測して数万の規模であったと考えられる。
これに対し、当時の旧暦・5月とは現代の6月から7月に該当し、この時期の朝倉は雨季であることから筑後川の氾濫が懸念される。筑後川は古来から暴れ川の異名を持ち、鎌倉時代の大宰府の古文書などでは、増水した筑後川の水が引いた時、筑後川の流れる場所が変わってしまうことから、朝倉と生葉(筑後川の対岸地域)との境界線が分からなくなってしまう記録が残っており、朝倉の筑後川周辺では、堤防が作られた近代でも大水害が生じている。
この問題を考慮した時に、志波地区の平野部は筑後川に面していることから、水害リスクの高い志波周辺で数万人の兵隊の居住や、武器の格納、馬の管理などを行うのは地形的に困難である。
したがって、朝倉橘広庭宮の実態を考える際には、宮殿所在地を一点に限定するのではなく、天皇の滞在施設、兵站施設、祭祀空間、軍勢の駐屯地が朝倉地域の複数地点に分散していた可能性を考慮する必要がある。
本稿では、朝倉橘広庭宮を単一の宮殿跡として断定するのではなく、百済救援という非常時に形成された、政治・軍事・祭祀を含む広域的な前線拠点として捉える。この理解に立つことで、宮野・須川・志波・山田など、斉明天皇伝承をもつ複数の地点が、それぞれ異なる機能を担っていた可能性を説明しやすくなる。
なお、663年の白村江の戦いにおける倭・百済連合軍の惨敗は、朝廷に空前の安全保障上の危機意識をもたらした。天智天皇はこれを受け、664年に那大津に水城を、665年には大野城・基肄城を築造し、九州沿岸に防人を配置するという多重防衛体制を整備した。
朝倉と後の北部九州防衛施設との具体的な関係は確認できていない。
吉松定家の祭祀と国防体制を直接結ぶ史料は、後世の系図以外に確認できない。
ここで検討すべき重要な問題は、『日本書紀』に記された「朝倉」が、現在の福岡県朝倉地域を指すものとしてどこまで妥当に理解できるかという点である。
斉明天皇の朝倉行幸については、福岡県朝倉地域を比定地とする見解が広く知られている一方で、他地域に比定する説も存在する。そのため、吉松家の始祖・定家が斉明天皇行幸に伴って朝倉に定着したとする伝承を検討するためには、まず『日本書紀』の「朝倉」表記と、現地に残る地名・神社・伝承との関係を整理しておく必要がある。
現時点で確認できる文献上、斉明天皇行幸地としての「朝倉」という表記が明確に現れる最初期の史料は、養老4年(720年)に成立した『日本書紀』である。この点は重要である。なぜなら、斉明天皇の朝倉行幸は661年の出来事であり、『日本書紀』の成立はそれから約60年後にあたるからである。したがって、『日本書紀』に記された「朝倉」という表記を、そのまま661年当時の現地呼称とみなすことはできない。
本稿では、「朝倉」という地名を、現地に古来から存在した固有音を単純に漢字化した名称としてではなく、在地祭祀空間、太宰府行政空間、中央編纂空間という複数の命名レイヤーが、同一地域圏をそれぞれ異なる仕方で把握した結果として成立した、翻訳・標準化地名として捉える仮説を提示する。
第一の層は、在地祭祀空間としての「麻氐良」である。現在の朝倉市杷木志波周辺には、麻氐良山および麻氐良布神社が存在し、「麻氐良」という名称が古い祭祀空間名として残されている。特に麻氐良布神社は927年に成立したとされる『延喜式』神名帳にも見える古社であり、この地域において「麻氐良」系の名称が強い持続性をもっていたことを示している。
661年に斉明天皇が筑紫へ行幸した段階では、地域の中心的名称はあくまで「麻氐良」であり、「朝倉」という名称はまだ成立していなかった可能性がある。したがって、『日本書紀』の「朝倉」を理解するためには、まずこの在地祭祀名としての「麻氐良」と、後に国家正史上に現れる「朝倉」との関係を説明しなければならない。
第二の層は、太宰府行政空間における「旦座」系の表記である。八世紀初頭の史料には「上旦座郡」という表記が見え、後世の上座・下座という地域構造を考えるうえで注目される。ここから直ちに「旦座」という単独地名の存在や、その読みを確定することはできない。しかし、少なくとも「旦座」を構成要素とする行政的地名層が存在した可能性は考慮されるべきである。
「旦」は、夜明け、朝、あるいは天子が朝に政務を執る時間を意味しうる字であり、「座」は座所・政務空間・儀礼空間を意味しうる。したがって「旦座」は、天子が朝に政務を執る座所、すなわち政治的・儀礼的空間を表す行政的名称であった可能性がある。ただし本稿では、「旦座」が当時どのように読まれていたかについては未確定とし、「旦座=アサクラ」とは断定しない。
この問題に新たな視角を与えるのが、朝倉市出身の書道家・井上悦文氏による字形上の指摘である。
井上氏は、著書『草書体で解く邪馬台国の謎――書道家が読む魏志倭人伝』において、古代文書における草書体・崩し字の問題を踏まえ、「麻氐良」の「氐」字の正式書体が「弖」であり、その草書殺字、すなわち草書化によって省略・変形した字形が、「久」字と類似することを指摘した。
すなわち、井上氏の指摘に従えば、「麻氐良」または「麻弖良」は、草書字形上「麻久良」と読み替えられうる可能性を持つことになる。
なお、井上氏は同じ著作の中で邪馬台国比定論や卑弥呼・天照大神同一説も展開しているが、本稿はそれらの議論には立ち入らない。本稿が参照するのは、あくまで「氐」「弖」「久」の字形上の類似に関する指摘である。
この指摘の重要性は、単なる音韻上の推測ではなく、書道家としての専門的知見に基づく字形判断である点にある。草書字形の類似性の判定は、通常の文献学的議論だけでは扱いにくい領域であり、長年の書道実践と古典資料の読み込みを重ねた書家の知見として、地名表記成立の仮説を補助する材料となりうる。
第三の層は、『日本書紀』編纂主体による「朝倉」である。『日本書紀』の編纂者は、斉明天皇行幸に関する先行記録、太宰府側の行政的記録、在地に残る祭祀名称や伝承を参照しながら、国家正史にふさわしい地名表記を選択したと考えられる。
本仮説の中心は、在地祭祀空間の名称である「麻氐良」が、『日本書紀』編纂過程において「アサクラ」と理解され、「朝倉」という表記へ整理された可能性にある。
井上悦文氏の指摘するように、「麻氐良」の「氐」または「弖」の草書字形は、「久」と類似する可能性がある。仮に「麻氐良」ないし「麻弖良」が、草書字形上「麻久良」と理解された場合、「麻」は「あさ」と訓まれ、「久良」は「くら」と読まれうる。そのため、「麻久良」から「アサクラ」という音が再構成された可能性がある。
この場合、「朝倉」という表記は、現地に古来から存在した「アサクラ」という固有音をそのまま漢字化したものではない。むしろ、在地祭祀名であった「麻氐良」が、中央の文字理解と正史編纂の過程で「麻久良」的に把握され、さらに「朝倉」という国家的表記へ転換されたものと考えられる。
ただし、「麻氐良」から「麻久良」への字形上の接近だけで、「朝倉」表記の成立をすべて説明できるわけではない。ここで補助的に考慮できるのが、太宰府行政空間に存在したと考えられる「旦座」系の表記である。
八世紀初頭の史料には「上旦座郡」という表記が見える。ここから直ちに「旦座」という単独地名の存在や、その読みを確定することはできない。しかし、少なくとも「旦座」を構成要素とする行政的地名層が存在した可能性は考慮される。
「旦」は、夜明け、朝、または天子が朝に政務を執る時間を意味しうる字であり、「座」は座所・政務空間・儀礼空間を意味しうる。したがって「旦座」は、天子が朝に政務を執る座所、すなわち政治的・儀礼的空間を示す行政的表記であった可能性がある。
もし『日本書紀』編纂者が、太宰府側の行政記録に見える「旦座」系の名称を参照していたとすれば、そこには二つの可能性が考えられる。
第一に、「旦座」という表記自体が、すでに太宰府行政空間において「アサクラ」またはそれに近い音で読まれていた可能性である。この場合、『日本書紀』編纂者は、太宰府側に伝わっていた「旦座」という行政表記とその読みを受け取り、それを国家正史にふさわしい佳字表記として「朝倉」へ改めたことになる。
第二に、「旦座」の当時の読みは未確定であったとしても、編纂者がその字義を「朝の座」「天子の政務空間」と理解し、斉明天皇の行宮を表す政治的名称として「朝倉」へ置き換えた可能性である。この場合、「朝倉」は「旦座」の音を受け継いだというより、「旦座」が持つ政治的・儀礼的意味を、中央国家の言語へ翻訳した表記であったことになる。
したがって、「旦座」系表記については、①そのものが「アサクラ」と読まれていた可能性、②字義上「朝の座」と理解されて「朝倉」へ置換された可能性、という二つの経路を想定できる。いずれの場合も、「旦座」は在地祭祀名「麻氐良」から「アサクラ」への読み替えを補強する、行政的・政治的な第二のレイヤーとして位置づけることができる。
つまり、本稿では「朝倉」表記の成立について、第一に、在地祭祀名「麻氐良」が草書字形上「麻久良」と理解され、「アサクラ」という音が再構成された可能性を中心に置く。そのうえで第二に、太宰府行政名「旦座」系の表記が、すでに「アサクラ」と読まれていた可能性、または「朝の座」「天子の座所」と理解されて中央編纂空間において「朝倉」という政治的表記へ置換された可能性を考慮する。
この二つの経路は、互いに排他的なものではない。むしろ、麻氐良という在地祭祀名、旦座という行政的表記、そして斉明天皇行幸という国家的記憶が重なったことで、『日本書紀』編纂者にとって「朝倉」という表記が選択されやすくなった可能性がある。
「朝」は朝廷・朝政・天子の政治空間を連想させ、「倉」は軍事物資・兵站・国家備蓄を連想させる。百済救援という軍事的危機の中で造営された行宮の名称として、「朝倉」は国家的・政治的な意味を帯びた表記であったと考えられる。
したがって「朝倉」とは、現地固有名をそのまま写した名称というより、在地祭祀名「麻氐良」を中心に、太宰府行政表記「旦座」系の意味も重なりながら、古代国家が地方空間を正史の言語へ翻訳・標準化した結果成立した政治的地名であった可能性がある。
この仮説は、斉明天皇行幸地を福岡県朝倉地域に比定する議論において重要な意味を持つ。もし「朝倉」という地名を、661年当時から現地に存在した単純な固有地名とみなすならば、『日本書紀』の表記と現在の朝倉地名との一致だけが主な根拠となり、他地域比定説に対して十分な説明力を持ちにくい。
しかし、「朝倉」を在地祭祀名「麻氐良」、太宰府行政表記「旦座」系地名、中央正史上の政治的名称が重なり合って成立した翻訳・標準化地名と見るならば、福岡県朝倉地域には、斉明天皇行幸の記憶を支える複数の地名・信仰・行政レイヤーが存在することになる。
すなわち、麻氐良山・麻氐良布神社、恵蘇八幡宮、宮野・須川・山田周辺の斉明天皇伝承、上座・下座という後世の地域構造は、互いに無関係な伝承群ではなく、古代国家が在地空間を把握し、再命名していく過程の痕跡として総合的に理解できる。
以上の仮説は、現段階ではなお実証すべき課題を残している。特に、「氐」「弖」「久」の草書字形の混同可能性を八世紀前後の古筆資料によって具体的に検証すること、「上旦座郡」という表記の運用実態を他史料から補強することは、今後の重要な課題である。
また、本稿は井上氏の字形上の指摘を参照するが、同氏の邪馬台国比定論や卑弥呼論を採用するものではない。本稿の目的は、それらの大きな古代史論争に立ち入ることではなく、「麻氐良」と「朝倉」という二つの名称が、どのような文字理解と編纂過程を経て接続された可能性があるのかを検討する点にある。
したがって本節の目的は、「朝倉」地名の由来を最終的に確定することではない。むしろ、『日本書紀』の記述、現地に残る麻氐良系地名、斉明天皇伝承をもつ神社群、太宰府行政圏における地名表記、そして八世紀初頭の地名整理政策を総合的に考慮した場合、福岡県朝倉地域を斉明天皇行幸地として理解する余地が十分にあることを示す点にある。
この意味で、本節の地名生成仮説は、吉松家史の本論から逸脱するものではない。むしろ、吉松家が自らの起源を斉明天皇行幸と結びつけて記憶してきた背景を検討するための、基礎的な地名・史料論として位置づけられる。
史料によれば、「朝倉橘広庭宮」を造営するにあたって、朝倉社(麻氐良布神社と推定される)付近の樹木が伐採された際、「鬼火が現れた」「多くの近侍が病死した」といった超自然的な現象が報告され、陣営内に原因不明の疫病が蔓延したと記録される。
これらの記述を、直ちに事実として受け取ることはできない。しかし、朝倉社の木を伐ったことに対する神の怒りという物語構造は、中央政権による宮殿造営が、在地の信仰空間に強い影響を与えたことを示唆している。疫病、環境変化、在地勢力との摩擦といった複数の要因が、後世に「鬼火」や「神の怒り」という形で記憶された可能性がある。
したがって本稿では、この伝承を単なる怪異譚として退けるのではなく、国家的事業と在地信仰の接触・緊張を伝える象徴的記録として位置づける。
そして実際に、斉明天皇は朝倉の地において崩御された(661年)。天皇の死は、遠征軍の精神的支柱を喪失させるとともに、国家的な祭祀体制の継続性に深刻な課題を突きつけるものであったと考えられる。
斉明天皇による筑紫行幸は、当初、滅亡した百済の復興支援という対外的な軍事遠征を主目的とするものであった。しかし、その後の白村江の戦い(663年)における倭・百済連合軍の敗北は、国防政策に大きな転換をもたらした。
天智天皇が主導した水城や大野城などの防衛施設の築造、および防人(さきもり)の配置といった一連の施策は、朝鮮半島を制圧した唐・新羅の軍事圧力が、次は日本列島へと波及することへの強い警戒感に起因するものである。すなわち、これらは単なる警備の強化にとどまらず、拡大する大陸勢力の侵攻を水際で食い止めるための、対外的な警戒を背景とする「国土防衛体制」の確立を意味していたと考えられる。
百済救援の準備が進められていた661年前後の時期こそが、吉松家の系図・系譜において、始祖・定家(さだいえ)が「系図上」に現れる時点として記録されている。
本節では、定家がいかなる役割を帯びて朝倉の地に定着したのか、そして家名となった「吉松」に込められた政治的・宗教的含意について考察する。
『吉松系図』と『吉松系譜』は、斉明天皇の朝倉行幸に伴い吉松定家が祭祀を始めたと記す。ただし、定家の存在や任命を確認できる同時代史料はない。
二中歴・九州年号による年代比定
『吉松系図』のこの伝承部分には、以下の不可解な記述が存在する。
「斉明天皇行幸筑紫之候有謂而可有制罸新羅國之在勅願也因之令定家爲司官白雉九年始而在祭祀」
これを直訳すると、「斉明天皇が筑紫へ行幸された際、新羅征討の勅願があり、定家を司官に任命し、白雉9年に祭祀が始まった」となる。ここで問題となるのは「白雉9年」という年号である。『日本書紀』に基づく公式な編年では、「白雉」は元年が650年であり、5年(654年)で終了しているため、「白雉9年」という年号自体が存在しないことになってしまう。
しかし、鎌倉時代初頭に編纂された年代記『二中歴』および「九州年号」の視点を導入することで、この「白雉9年」は誤記ではなく、当時の出来事を反映している可能性が浮上する。
『二中歴』の「年代歴」によれば、古代の九州においては『日本書紀』の記述とは異なる独自の年号(九州年号)が用いられていたとされる。そして、同書によれば、九州年号における「白雉」は652年(壬子)を元年とし、9年間続いたと記録されている。
この記述に基づき年代を算出すると、以下のようになる。
白雉元年:西暦652年
白雉9年:西暦660年
白鳳元年:西暦661年
この「白雉9年(西暦660年)」という年は、東アジア情勢において転換点となった年である。この年、百済が唐・新羅の連合軍によって滅ぼされ、その急報を受けた斉明天皇は百済復興と新羅征討を決意し、自ら軍を率いて救援に向かうことを宣言したまさにその年である。
斉明天皇の一行は、660年(白雉9年)に百済救援を決意し、翌661年(九州年号における白鳳元年)の初頭に筑紫・朝倉へ到着している。
この史実と照らし合わせると、『吉松系図』にある「白雉9年に祭祀が始まった(始而在祭祀)」という記述の真意が浮かび上がる。これは、斉明天皇が実際に朝倉入りした時点(661年/白鳳元年)を指しているのではなく、天皇が「新羅征討の勅願」を発し、国家としての意思決定を行い、定家にそのための祭祀を命じた時点(660年/白雉9年)を指していると解釈するのが可能性のある解釈である。
すなわち、定家は天皇が筑紫に到着するのを待ってから祭祀を始めたのではなく、百済滅亡の報を受け、遠征軍が編成され難波を出発した660年の段階で、すでに国家防衛・異国調伏の祭祀体制(司官)に任命されていたことを意味する。
以上の考察から、『吉松系図』に見える「白雉9年」という記述は、単純な誤記として退けるよりも、百済滅亡の報を受けた660年頃の政治的緊張と祭祀動員を反映した伝承として受け止める余地がある。
ただし、この解釈はあくまでも九州年号という傍証的な史料に依拠したものであり、「白雉9年」が同時代の確実な記録であると断定することはできない。本稿では、この記述を、斉明天皇の朝倉到着以前から異国降伏・百済救援に関わる祭祀準備が意識されていた可能性を示す注目すべき伝承として位置づけ、確定的事実とは区別して扱う。
なお、定家が祭祀を開始したとされる660年(白雉9年)の時点では、現在我々が知る形での恵蘇八幡宮は未だ存在しておらず、恵蘇八幡宮の創建年代については、本調査においては以下の立場を取る。(理由は後述する)
661年の斉明天皇崩御後に、斉明天皇の御殯斂地(木の丸殿)付近で、中大兄皇子が点から降ってきた白旗に「八幡」の文字を見たということから、その場所を「朝倉山天降八幡」と呼ぶ。
672年の天武天皇の時代に、「朝倉山天降八幡」に応神天皇を祀り、「恵蘇八幡宮」と称す。(定説では、この際に斉明・天智天皇の二神も合祭している)
定家は朝倉の地で、祭祀を行う祠官になったことで、これ以降の吉松家は朝倉郷の総大宮司的な役割を担い、特に周辺の宮野神社、麻氐良布神社などの祭祀を預かったと記録される。
朝倉には現在でも斉明天皇の伝承が残る神社が数多く残っており、先述の国家の危機は深刻なものであり、『神』への期待が相当に高かったと考えられる。
以下は、現在も存在する斉明天皇の伝承が残る神社。
恵蘇八幡宮(えそはちまんぐう)
所在地:朝倉市山田
伝承:百済救援のため、武運長久を祈願して建立された。宇佐神宮より応神天皇の御霊を勧請したと伝えられている。
麻氐良布神社(まてらじんじゃ)
所在地:朝倉市杷木志波
伝承:『日本書紀』において、斉明天皇の葬儀の際に「朝倉山の上に鬼が現れた」という記述があり、この「朝倉山」にあたるのが麻氐良山。
宮野神社(みやのじんじゃ)
所在地:朝倉市宮野
伝承:朝倉橘広庭宮に入られた際、天皇の病気平癒と百済救援の勝利を祈願するため、藤原鎌足が創建したとされている。
別所神社(べっしょじんじゃ)
所在地:朝倉市須川
伝承:中大兄皇子が、麻氐良布神社の祭神「伊弉冊尊」を分祀し、斉明天皇の病気平癒を祈願したとされる神社。
朝闇神社(ちょうあんじんじゃ)
所在地:朝倉市長安寺
伝承:朝倉橘広庭宮の造営に合わせて建立されたと伝えられている。
宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)
所在地:朝倉市宮野
伝承:かつて神功皇后が三韓征伐の際に宗像の宮地岳で祈願した故事に倣い、宮野の山に天地の神を祀って戦勝を祈願したとされている。
厳島神社(いつくしまじんじゃ)
所在地:朝倉市比良松
伝承:朝鮮半島への出兵に先立ち、海上の安全を祈願するため、斉明天皇が中大兄皇子に命じて創建させたと伝えられている。
福成神社(ふくなりじんじゃ)
所在地:朝倉市入地
伝承:その昔、神功皇后が熊襲を征伐し、三韓に兵を進められた時、宗像三神を祀り海路の安全を祈られたことから、斉明天皇も百済救援の時、中大兄皇子らと共にこの神社で戦勝祈願をしたとされる。
『吉松系譜』では、祭祀を始めた時に「宮野住」の記載があり、吉松家は宮野に拠点をおいていたのではと考えられる。
このことから、吉松定家は本来は宮野神社の祭祀を行う祠官であったが、天武天皇の時代に恵蘇八幡宮が創建された際に、朝倉に残っている祭祀を担っている朝廷の祠官として、恵蘇八幡宮の祭祀も行うようになったことが推定される。
また、筑前國風土記では、江戸時代の時点で麻氐良布神社の祭祀者として小野氏と共に吉松氏の名前が記録されている。
なお、『日本書紀』に「鬼火が現れた」「多くの近侍が病死した」との記述がある朝倉社は、麻氐良布神社の前身と考えられる。しかしこの朝倉社は当時から現在の麻氐良布神社の位置(麻氐良山頂上)にあったのではなく、朝廷が橘広庭宮を造営する際、朝倉社付近の木を伐採したため、後にこの社を麻氐良山頂上へ遷座し、麻氐良布神社と称したことが考えられる。
麻氐良山は、現代の整備された最短ルートでも麓から頂上まで片道30分程度を要する。祭祀を担った吉松家の拠点である宮野から麻氐良山頂上までは相当な距離がある。
ここで注目すべきは、須川(宮野付近)に鎮座する別所神社の存在である。この神社には「中大兄皇子が麻氐良布神社の祭神『伊弉冊尊』を分祀し、斉明天皇の病気平癒を祈願した」との伝承が残る。宮野を拠点とする吉松家が遠隔地の麻氐良布神社の祭祀を担当していたという背景を考慮すると、吉松家が神事の負担軽減のため、自らの拠点付近に麻氐良布神社の祭神「伊弉冊尊」を分祀して別所神社を創建した可能性も考えられる。
国家の命運を握る祭祀を任された定家とは何者であったのか。当時の時代背景を踏まえると、その出自については以下の3つの可能性が浮上する。
第一に、もともと朝倉周辺に居住していた在地豪族が、急遽登用されたとする「現地採用説」。 第二に、朝廷の祭祀官僚として、都あるいは中央の祭祀ネットワークから派遣されたとする「中央派遣説」。 第三に、宇佐神宮や宗像大社など、すでに確立された有力な祭祀拠点から「プロフェッショナル」として招集されたとする「専門家赴任説」である。
本研究では、第一の「現地採用説」の可能性は低いと考える。斉明天皇の行幸は百済救援という国家総力戦であり、その中枢における祭祀危機(天皇の死と疫病)への対処を、たまたま居合わせた在地の人物に委ねるとは考えにくいためである。
むしろ、後述する中臣氏との関係性を考慮すれば、定家は「国家の命運を懸けた祈りのプロフェッショナル」として、第二の「中央派遣」あるいは第三の「専門家赴任」という形で、朝倉の地に戦略的に送り込まれた人物である可能性が高い。
系図には、斉明天皇または中大兄皇子が定家に「待異国降伏之吉」と命じたとする伝承が記される。
家名を「吉を待つ」に由来するとする話も系図・家伝に見える。吉松姓の使用開始時期と命名経緯は確認できていない。
吉松家の始祖・定家が、単なる在地神官ではなく、中央の意思を帯びた「派遣された祭祀者」であった可能性については前節で触れた。本節では、吉松家に伝わる系図史料と、そこに見られる「卜部(うらべ)氏」「中臣(なかとみ)氏」の痕跡を分析し、その出自との関連を検討する。
吉松家の出自を検討する手がかりの一つは、江戸期の写本系図に記された「卜部定澄五世的傳(卜部定澄、五世の嫡伝なり)」という記述にある。この一文が示す「定家と卜部定澄の関係」については、以下の2つの解釈が可能である。
一つは「6世紀の始祖」説である。定家の活動時期(661年)から5世代遡及し、6世紀中頃(550年頃)に実在した「卜部定澄」という人物を起点とする説である。宗像大社周辺には古代より卜部氏の活動が確認されており、年代的な整合性も高い。史料的な裏付けには欠けるものの、古代卜部氏の末裔が定家であるとする系譜的ストーリーは自然に成立する。
もう一つは「16世紀の系図作成者」説である。現存する系図の成立過程に着目した説である。系図の「原典」が作成されたと推測される1540年頃、越前一乗谷に「卜部定澄」なる神職が実在した。この人物が原系図の筆者もしくはこの系図を承認した人物であり、吉松種政が1668年に系図を写本する際に「卜部定澄から5世代に渡って伝えられた系図」という意味で「卜部定澄五世的傳」を残したとする解釈である。
いずれの仮説を採るにせよ、これらは、吉松家が古代中央祭祀氏族である卜部氏との関係性が強固であったという自意識を保持していたことを示唆している。
定家が卜部氏の支流であるという仮定は、彼がなぜ朝倉行幸に随行・抜擢されたのかという疑問への回答となる。古代において、卜部氏は神祇官として中臣氏の配下にあり、亀卜(きぼく)などの実務を担う関係にあった。
661年の朝倉行幸には、中大兄皇子の右腕として中臣鎌足が随行している。つまり、祭祀の最高責任者である中臣鎌足が、自らの手足となる実務能力を持った卜部氏の一族(定家)を伴って朝倉に入ったと考えるのが、一つの解釈として考えられる。
この推論を補強するのが、後世の吉松家の史料に見られる「藤原」姓の痕跡である。恵蘇八幡宮の縁起書や墓石には、「吉松修理藤原種政」「藤原種吉四代孫」といった署名や記述が散見される。初代・定家の時代にはまだ「藤原」姓は存在しない(鎌足が賜るのは死の直前である)。
したがって、これらの記述は、後世の吉松家当主たちが「我々は中臣(藤原)の血、あるいはその祭祀的系譜に連なる者である」という認識を明確に持ち、それを「藤原」という姓で表現したと解釈すべきと考えられる。
最後に、名前に用いられる文字(通字)の観点から考察を加える。吉松家は始祖・定家以降、中世に秋月氏から「種」の字を拝領するまで、「定(さだ)」を通字として使用してきた。
確認できる範囲では、前述した16世紀の神職・卜部定澄もまた「定」の字を用いている。「定」という文字が卜部氏・吉松家の双方に用いられているという事実は、両者が祭祀職としての共通規範や同族意識で結ばれていた可能性を示唆している。ただしこれは傍証の域を出るものではなく、より確実な史料による裏付けを待つ必要がある。
吉松定家を卜部氏系の祭祀者とする仮説がある。根拠は後世の系譜記述や通字などの間接材料に限られ、同時代史料による確認はできない。
前節までの考察で、吉松定家が中臣鎌足の指揮下にある祭祀官僚であった可能性を提示した。この仮説を補強する手がかりの一つとして、恵蘇八幡宮の近隣に鎮座する「宮野神社」の由緒が注目される。
『吉松系図』と『吉松系譜』のいずれも、吉松家は恵蘇八幡宮と同時に宮野神社の祭祀も執り行っていたとされる。また、1587年に恵蘇八幡宮の宮司職を解かれた後も、分家を通じて宮野神社の祭祀は江戸後期まで継承しており、吉松家は宮野神社だけは最後まで自家で守ろうとしていた形跡が残る。そして、この宮野神社の由緒と祭神には、看過できない事実が刻まれている。
『福岡県神社誌』や現地の由緒書きによれば、宮野神社は斉明天皇7年(661年)、天皇が「藤原鎌足(中臣鎌足)に命じて」創建させたと伝えられる。さらに重要なのは、その祭神に「天児屋根命(アメノコヤネノミコト)」が含まれている点である。天児屋根命は、日本神話において岩戸隠れの際に祝詞を奏上した神であり、何より中臣氏(藤原氏)の祖神である。
宮野神社には中臣鎌足創建の伝承があり、吉松家が祭祀に関与したとされる。ただし、吉松定家と中臣鎌足の主従・同族関係を示す同時代史料は確認できない。
宮野神社には、もう一つ興味深い伝承が残されている。地元ではこの神社が「藤原氏祖先の墓」であると言い伝えられている点である。
史実として、中臣鎌足(藤原鎌足)の墓は近畿地方(阿武山古墳等)にあるとされるが、なぜ遠く離れた朝倉の地に「藤原氏の墓」伝承が残ったのか。 本稿の文脈で解釈すれば、これは661年の百済救援・朝倉行幸に随行した中臣氏配下の祭祀官僚(卜部氏等)たちの活動拠点、あるいは客死した同族たちの埋葬地であった記憶が、長い年月を経て「藤原氏祖先の墓」という形に変容して伝承されたと考えられる。
また、宮野神社の境内には小規模な円墳型古墳がある。時代背景を考慮すると、小規模な円墳が多く見られる時期は、646年に薄葬令(はくそうれい)が発布されて以降であり、これ以降の古墳は小型化し、形も方墳(四角)や円墳(丸)が主流になった。この時代背景を考慮すると、宮野神社の古墳は7世紀後半から8世紀初頭にこの地で没した人物のものである可能性があり、藤原氏(中臣氏)にゆかりのある人物、あるいは初代・吉松定家に相当する人物が被葬者の候補として浮かび上がる。ただし、現段階では考古学的な実証を欠くため、あくまで仮説として提示するにとどめる。
系図と神社由緒には、吉松家を中臣氏系の祭祀と結びつける記述がある。これは家の自己認識を示す史料として扱い、血縁上の系譜とは区別する。
以上の調査から、朝倉における吉松家の役割が立体的に浮かび上がる。
吉松家は、一方では「恵蘇八幡宮」において応神天皇(八幡神)を祀り、天皇家の武運と国家鎮護を祈る「公的な国家祭祀」を担った。そしてもう一方では、「宮野神社」において中臣氏の祖神(天児屋根命)を祀り、祭祀氏族としてのルーツと結束を確認する「氏族的な祭祀」を担ったと考えられる。
系図では、1587年前後に吉松種栄が宮野側の祭祀を担ったとされる。宮野神社との関係や職掌の具体的な移行過程は追加検証が必要である。
宮野神社の由緒は、吉松家が自家の起源を卜部・中臣氏と結びつけて理解した可能性を検討する材料の一つである。血縁関係を示す証拠ではない。
朝倉における定家の役割
本章における考察を総括する。
吉松家の始祖・定家は、西暦661年、対外的緊張に際して、斉明天皇・中大兄皇子、そして中臣鎌足らと共に朝倉の地へ降り立った。
彼は、「白鳳元年(661年)」に祭祀を開始したと見られるが、それは在地のローカルな信仰ではなく、中臣氏の指揮下で行われた「異国降伏」のための国家的な祭祀とする家伝である。
「卜部定澄五世的傳」という系譜、中臣鎌足による宮野神社の創建、そして「定」という通字の共有。これら全ての痕跡は、定家が中臣(藤原)氏の祭祀ネットワークの一員として派遣されたプロフェッショナルであったことを指し示している。
吉松家の系図・通字・社伝には古代祭祀との関係を示す記述があるが、成立時期の隔たりが大きく、古代の事実としては確認できない。
古代国家が確立した律令制は、土地と人民を国家が直接支配する「公地公民」を原則としていた。しかし、奈良時代中期に至り、その根幹を揺るがす重大な政策転換が行われた。本節では、743年(天平15年)に発布された「墾田永年私財法」が、朝倉地域の在地社会、とりわけ吉松家に与えた衝撃と、それがもたらした社会構造の変化について考察する。
743年、聖武天皇の勅により「墾田永年私財法」が施行された。これは、新規に開墾した耕地の永久私有を認める法令であり、それまでの「班田収授法」に基づく土地の公有原則を実質的に放棄するものであった。
中央の貴族や大寺社にとって、この法は荘園(私有地)を広げて富を蓄積する好機と捉えられた。しかし、地方の在地勢力、特に吉松家のような祭祀を役割とする一族にとっては、単なる資産形成の機会という以上の深刻な意味を持っていた。
土地所有の私有化が「国家による保護義務の放棄」を意味するという点にあった。公地公民制下において、土地は国家のものであり、そこへの侵入や侵害は国家が警察権を行使して排除すべき対象であった。しかし、土地が私有財産となれば、その防衛責任は所有者自身に負わされることになる。
隣接する村落との境界争い、住む場所を失った人々による略奪、飢えに端を発する野盗の襲撃などに対し、在地の領主は自らの力で対処せざるを得ない。祭祀氏族であった吉松家もまた、好むと好まざるとにかかわらず、武力を保持するか、あるいは強力な武力を持つ者と結びつかざるを得ない時代が到来しつつあった。これは、後の「武士」の発生と、吉松家が武家社会へと組み込まれていく過程の始まりとなる認識であった。
当時の朝倉地域(上座郡)における土地支配の状況を概観すると、9世紀中頃の史料には「前田臣市成(まえだのおみ・いちなり)」という人物が上座郡の大領(郡司)として善政を敷いた記録が残されている。この事実は、墾田永年私財法の施行後も、朝倉地域においては直ちに大規模な寄進地系荘園が乱立したわけではなく、依然として朝廷から派遣された役人(郡司層)による行政支配が機能していたことを示唆している。
しかし、制度的な枠組みとしての律令制が残存していたとしても、実質的な土地支配の論理は変わりつつあった。
国家の統治能力が後退する中で、在地においては実力による権利主張が当たり前になっていく。吉松家は、この過渡期において、単なる宗教者としてではなく、在地社会の秩序維持に関与する「領主」としての性格を帯び始めることとなる。次節で述べる藤原純友の乱と大蔵氏の入部は、この緩やかな在地領主化の流れを重要なものへと変える転換点であった。
前節で述べた律令制の動揺と在地社会の不安定化は、10世紀中頃、国家の統治機構そのものを脅かす大規模な反乱として現れた。本節では、承平・天慶の乱(藤原純友の乱)が筑前・朝倉地域にもたらした政治的空白と、その鎮圧者として登場した大蔵春実による新秩序の形成過程について論じる。特に、春実と吉松家(第10代定政)との間で結ばれた祭祀・経済的同盟関係は、中世を通じた同家の存立基盤を決定づける重要な転換点であった。
承平・天慶年間、瀬戸内海の海賊勢力をまとめた藤原純友の反乱は、九州統治の中心である大宰府を焼き討ちにするという衝撃的な事態を引き起こした。吉松系図の代数換算からすると、この大宰府焼失は第10代当主・吉松定政の時代前後に相当すると推定される。この出来事は、律令国家による公的保護の崩壊を示す象徴的な事件として、在地社会に深刻な衝撃をもたらしたと考えられる。
この「公権力の不在」という極限状況は、在地勢力に対し、自衛のための武装化か、あるいは強力な軍事保護者への従属かという二者択一を迫るものであった。吉松家にとって、この危機を救ったのは、朝廷より「征西大将軍」として派遣された大蔵春実(おおくらはるざね)の登場であった。
漢の高祖・劉邦の子孫を称する大蔵春実は、小野好古と共に九州へ下向し、博多や肥前での激戦を経て純友の乱を鎮圧した。歴史的に重要な点は、乱の平定後、春実が都へ帰還せず、筑前国御笠郡原田(現在の筑紫野市・小郡市周辺)に定着したことである。
春実は「大蔵」の姓に加え、地名である「原田」を名乗ることで、中央から派遣された「役人」から、土地に根ざした「在地領主(武士)」へとその性格を変えた。これは、原田氏、秋月氏、高橋氏などを輩出する九州の有力な武士団とされる「大蔵党」の起源であり、朝倉地域もまた、この有力な軍事勢力の支配領域へと組み込まれていくことになる。
吉松家の系図によると、朱雀院の時代の931年(承平元年)に、大蔵春実は恵蘇八幡宮を訪れ、吉松定政に対し、地域祭祀の抜本的な再編を命じたとされる。ここで史料批判上の問題を整理しておく必要がある。吉松系図に記された「931年(承平元年)」という年次は、大蔵春実が九州へ下向した時期と符合せず、後世の誤写または年次の混同と考えられる。
一方、「朱雀院の時代」という記述は、春実の活動期(純友の乱鎮圧:940年)と整合する。また、後述するように周辺神社の由緒に残る「930〜940年代に大蔵氏が関与して祭祀を整えた」という複数の記録とも対応する。これらの状況証拠を総合し、本稿では吉松系図の年次を「941年(天慶4年)頃」に補正して評価することを断わった上で、議論を進める。
具体的には、従来の八幡神(応神天皇)に加え、この地にゆかりの深い斉明天皇と天智天皇を合祀すること、さらに「恵蘇八幡宮」、中臣鎌足が創建したとされる「宮野神社」、大蔵春実が創建した古毛の「老松神社」を統合し、「老松三社大明神」として体系化することであった。
この祭祀再編には、外来の軍事指揮官である春実が在地支配を円滑に進めるための政治的意図が読み取れる。すなわち、斉明天皇や天智天皇という「土地の記憶」を継承・保護する者として自らを位置づけることで、在地支配の正統性を高めようとしたと解釈できる。ただしこれは史料から導かれる推論であり、春実の意図を直接示す記録が残るわけではない。
そして、その祭祀実務の責任者(総大宮司)として、在地に古くから根付く吉松家を指名し、利用した。ここにおいて、吉松家は単独の神社奉仕者から、地域全体の祭祀ネットワークを統括する宗教的権威へと引き上げられたのである。
なお、恵蘇八幡宮における、斉明天皇と天智天皇の合祀に関する通説は、672年に天武天皇の勅命によるものとされており、941年頃だという吉松家内部の伝承と食い違いがある。この点について、現時点では吉松家の伝承が正しいと評価できるため、以下にその根拠を述べる。
まず、「斉明・天智天皇合祀672年説」が抱える時代的な矛盾についてである。恵蘇八幡宮の社伝や江戸時代の縁起書には、同社が672年(白鳳元年)に天武天皇の勅命によって斉明天皇と天智天皇が合祀されたと記されている。
しかし、八幡信仰の中心である宇佐神宮において、八幡神として社殿が整備され、信仰が確立したのは725年(神亀2年)である。本家である宇佐神宮の成立以前に、朝倉の地で「八幡宮」として天皇霊を合祀する祭祀体系が完成していたとは考えにくい。
また、この「斉明・天智天皇合祀672年説」が文献上に現れるのは、1682年に記された恵蘇八幡宮縁起書による影響が大きく、「朝倉記聞」や「筑前國続風土記」など、これ以降に書かれた書物でにおいて「斉明・天智天皇合祭672年説」が採用されていると見られる。
一方「斉明・天智天皇合祀941年説」とする吉松家の文書の成立時期は、早くとも1560年頃、遅くとも1668年と見られ、これは恵蘇八幡宮縁起書よりも古い伝承である。また、恵蘇八幡宮縁起書では、秋月家が去った1587年以降、恵蘇八幡宮が荒廃していたことを中心に書かれていることから、この縁起書の編纂目的は恵蘇八幡宮の由緒を伝えることでこれ以上の荒廃を防ぐことが目的であったと考えられる。
恵蘇八幡宮縁起書に見える宇佐神宮からの応神天皇勧請と672年の斉明・天智合祭については、後世の編纂意図が反映された可能性を検討する必要がある。現段階で成立時期や経緯は確定できない。
次に、周辺神社の記録と一致する「941年頃説」についてである。吉松家の系図には、朱雀院の時代の10代当主・定政の頃に、地元の有力武将である大蔵春実が来訪し、斉明・天智の二天皇を合祀して土地を寄進したと記されている。この記述は、恵蘇八幡宮だけの情報ではなく、周辺神社の由緒と照らし合わせると高い整合性が確認できる。
福成神社(入地)は942年に大蔵春実の息子・大蔵種章の神告によって斉明・天智両天皇を合祀したと伝え、宮野神社(宮野)は938年から946年の間に大蔵春実が祭神(吉祥女)を追加したとし、老松神社(古毛)には大蔵春実が社地を寄進したという伝承が残る。これらの神社はいずれも、「930年代から940年代に、大蔵氏が関与して祭祀を整えた」という共通した記録を持っている。
これらは吉松系図の941年説と一部で対応するが、合祀年代を確定する直接史料ではない。
当時の歴史状況とも矛盾しない。931年から940年頃は、藤原純友の乱などを通じて武士が台頭し始めた時期であり、大蔵春実もこの乱の鎮圧によって勢力を拡大した人物である。この時代、武士たちの間では戦の神である八幡神への信仰が急速に広がっていた。その流れの中で、春実が自らの勢力圏の守り神として恵蘇八幡宮を整備し、さらに由緒ある斉明・天智天皇を合祀して権威付けを行ったと考えることは、歴史の流れとして自然である。
以上の検討から、恵蘇八幡宮における合祀の実年代については、941年(天慶4年)頃とする吉松系図の記述が、周辺神社の由緒・大蔵氏の活動期・八幡信仰の成立過程という複数の観点からより整合的であると考えられる。ただし、これをもって1682年の縁起書の記述を完全に否定することは慎重であるべきであり、今後の史料発掘によって再検討の余地が残ることを付記しておく。
941年(天慶4年)、藤原純友の乱を鎮圧した大蔵春実による筑前支配の確立は、吉松家にとっても大きな転換点となった。本節では、春実の主導によって構築された地域祭祀の統合システムである「老松三社大明神」体制の構造と、その経済的基盤として吉松家に与えられたとされる「免上地七百町」の実態について、中世的な権利関係と支配の二重構造の観点から分析する。
系図では、大蔵春実が吉松定政に祭祀の再編を命じたとされるが、同時代史料では確認できない。
その主な内容は、地域内に分散していた信仰拠点の統合と、祭神を重ね合わせることである。具体的には、前項でも登場した通り、恵蘇八幡宮へこれまでの「八幡神(応神天皇)」に加え、朝倉の地に歴史的由緒を持つ「斉明天皇」と「天智天皇」を合祀すること、さらに、「宮野神社」では、春日山王の神(天児屋命・大己貴命)に加え、菅原道真の正室を神格化した神の「吉祥女」を合祀した。また、古毛地区には大蔵春実自身が「老松神社」を創建し、「恵蘇八幡宮」「宮野神社」「恵蘇八幡宮」の三社をあわせて、「老松三社大明神」と号したとされる。なお、神社における「老松」とは、菅原道真公(天神様)やそのご家族にゆかりがあるという意味を持つ。
吉松家の史料には登場しないが、『朝倉紀聞』によると、福成地区の「福成神社」は、大蔵春実の息子・大蔵種章によって、斉明天皇と天智天皇の合祀されたと云う伝承が残る。
祭祀再編を在地支配と関連づける解釈は可能だが、大蔵氏の意図を直接示す記録は確認できない。
八幡神という「武運の神」と、斉明・天智という「土地の記憶」、そして筑前国の太宰府にゆかりがある菅原道真という「在地の氏神」を吉松家という単一の祭祀氏族の下に統合させることで、地域社会の精神的支柱を一元管理しようとしたと考えられる。吉松家はこの再編により「総大宮司」としての色をより濃くすることになり、これまで以上に地域内の全祭祀権を掌握することとなったと考えられる。
この祭祀再編の見返りとして、春実は吉松家に対し、朝倉郷のうち700余町を「免上地」として寄進したと伝えられる。免上地とは、国への税が免除された特権的な所領を指す。しかし、当時の「700町」という数字の評価には慎重でなければならない。
まず、当時の700余町という広さについて、正確な広さは分からないが、仮に一般的な単位で評価をした場合は、約700ヘクタール (ha)程度となる。これは東京ドーム約148個分に相当し、旧・朝倉町全体(約3,456ヘクタール)の約5分の1に相当する広さの土地の寄進を受けたことになる。ただし当時の「町」の基準は時代・地域によって異なり、この数字はあくまで参考値として理解すべきである。
なお、9世紀中頃の史料には、上座郡(朝倉)の大領として「前田臣市成」の名が見え、律令官人による統治が機能していたことが確認される。また、後の時代には周辺地域に「秋月荘」「三奈木荘」「長渕荘」といった複数の荘園が並立している一方で、旧朝倉町エリアに荘園や他社の神領地があった記録はないことから、この「700町」の意味については、領域の誇張表現である可能性を含みつつも、大蔵氏の勢力圏の一部における祭祀権益が吉松家に保証されたことを示す象徴的な数字であると考えられる。
『吉松系譜』では、この700余町の寄進を受けた人物として「総大宮司兼朝倉郷長定政」と書かれており、この頃より吉松家は神領を管理する総大宮司とともに朝倉の徴税権をもつ郷長の性格を持っていたと見られる。
一方で、吉松家には独立した軍事力がなかったという状況を踏まえると、この神領地の実態は土地の直接的な所有権というよりも、当該地域から得られる収益の一部(祭祀料・初穂料など)を徴収する権利の付与であった可能性が高い。実質的な所領管理や軍事警察権は大蔵氏が保持し、吉松家は宗教的機能を提供する対価として経済的特権を得るという構造であったと解釈するのが、当時の社会的文脈に照らして整合的である。
この体制の確立は、吉松家にとって「在地領主化」の完成ではなく、強力な武家権力への「従属的同盟」の始まりを意味した。春実と定政の間で確立されたのは、「祭祀機能を提供する社家」と「軍事・警察権を担う武家」という役割の明確な分業体制であった。
これは、古代的な祭政一致の段階から、中世的な「武家(軍事担当)」と「社家(祭祀担当)」の役割分担へと移行したことを示している。吉松家は、大蔵氏(後の原田氏・秋月氏)という武力を後ろ盾とすることで、律令制崩壊後の不安定な社会情勢の中で存続を図った。しかし、この構造は逆に言えば、武家の勢いの盛衰がそのまま吉松家の経済基盤に直結するというリスクを含んでいた。その脆さは、後の平家滅亡に伴う大蔵氏(原田氏)の没落によって現実のものとなるのである。
前節で論じたように、平安中期以降の吉松家は、大蔵氏(原田氏)という有力な軍事勢力に祭祀機能を提供することで、その保護下において「免上地七百町」と称される経済基盤を維持してきた。しかし、平安末期の源平合戦による政治体制の激変は、この「武家と社家の持ちつ持たれつの関係」を根底から揺るがすこととなった。本節では、平家滅亡に伴う原田氏の没落と、それに続く鎌倉幕府体制下での秋月氏の台頭、そして再構築された朝倉地域の支配構造について考察する。
原田種直は平重盛の養女を妻に迎え、平家方との関係を持ったとされる。吉松家と原田氏の具体的な保護・所領関係は、系図記述と外部史料を分けて検討する必要がある。
1185年(文治元年)、壇ノ浦の戦いにおける平家の滅亡は、朝倉の支配構造を一変させた。原田種直は「平家側の中心人物」として捕らえられ、鎌倉への幽閉(禁固13年)処分を受けた。これに伴い、法的根拠を失った原田氏の所領は没収された。
吉松家が依拠してきた「免上地七百余町」もまた、大蔵氏(原田氏)の権益として実質的に支えられていた以上、その後ろ盾を失ったことで経済的・法的な基盤が大幅に揺らいだと推定される。直接的に「平家没官領」として接収されたことを示す文書は現時点で確認できないが、吉松家が長年依存してきた軍事的・政治的後ろ盾を失い、存続の危機に直面したことは状況的に十分推定できる。
1185年の鎌倉幕府成立から13世紀初頭にかけて、朝倉地域は一時的な「権力の空白」あるいは過渡期を迎えた。幕府は新たに関東の御家人である天野遠景や少弐氏を守護として配置したが、在地における支配の実態は流動的であった。
その後、1288年に朝倉郷を含む上座・下座などのエリアは、元寇で武功を上げた恩賞として鎌倉幕府から星野氏へ所領として与えられることになる。
しかし、1185年頃から1288年までの約100年間、それまで神領地であった朝倉郷や大宮司家・吉松家がどのような支配状況にあったかは不明であり、吉松家がそのまま朝倉郷長を担ったのか、それとも鎌倉幕府から御家人が来て支配・管理を行ったのかは分かっていない。
いずれにせよ、鎌倉幕府成立直後の朝倉地域では、筑前で勢力を保っていた原田氏という頂点を失った大蔵党の各支流や在地豪族たちは、それぞれの勢力圏を維持しながら不安定な情勢をなんとか生き抜いていたことが推測される。吉松家もまた、この不安定な時期を、在地に残存する勢力との連携や、かろうじて維持された祭祀権益によって凌いでいたと考えられる。
先述した通り、1288年に朝倉を含む上座・下座などのエリアは、元寇での武功に対する恩賞として鎌倉幕府から星野氏が拝領した。
これ以降、朝倉の地頭職は星野氏が担うこととなり、吉松家が大蔵春実から寄進を受けた朝倉郷700町は、星野氏の寄進地系荘園における神領地という性格を帯びることになったと推測される。
元寇は防衛戦争であり、勝利はしたものの幕府として新たな領地が増えたわけではない。一般に、元寇に対する武士への恩賞は限定的で、与えられる土地がほとんどなかったとされる。そのような状況下で所領を獲得した星野氏は、相当に大きな武功を上げたと考えられる。
星野氏の出自は黒木氏である。『星野家譜』の伝承によれば、1200年に黒木助能が朝廷に出仕した際、天皇の子を授かった女性を妻に迎え、その後生まれた子を黒木氏の嫡男としたという。
この伝承に基づけば、星野氏は天皇家の系統につながることになる。家譜の記述をそのまま史実と断定することは慎重であるべきだが、血筋が社会的権威の重要な源泉であった当時の社会において、こうした出自の伝承を保持すること自体が、星野氏の格式と存在感を高める機能を果たしていたと考えられる。
さらに、天皇家の血を引く星野氏は、天皇家の先祖の一人である斉明天皇の伝承が残る朝倉の地に対して特別な縁を感じていた。星野氏の初代・星野胤実は、朝倉で恵蘇八幡宮、橘広庭神社、別所神社、厳島神社などを参拝したとされ、朝倉郷内の上須川地区には胤実が創建したと伝わる高木神社が現存している。
こうした血統的・精神的な背景もあり、星野氏はこれ以降、朝倉郷に対して強い執着を持つこととなる。そして長期にわたり、朝倉郷の地頭および国人領主としてこの地を治めることになるのである。
ただし、星野氏の本拠は妙見城で、位置的には現在のうきは市から星野村付近であり、朝倉とは筑後川を挟んだ位置関係にある。距離はそこまで遠くないものの、筑後川という物理的障害の影響は大きかったため、実際の朝倉エリア(上座)の支配・管理は、朝倉に住む有力家臣に任せていた。
そして、1333年には、朝倉エリア(上座)の志波の庄・鳥山城主の松平遠盛が首謀者となり、星野氏に対して朝倉地域で反旗を翻し、大友氏に従属するという出来事が起こる。
『星野家譜』の記述によれば、星野氏はこの反乱を収束させ、朝倉エリア(上座)の所領を維持したとされる。ただしこの経緯の詳細については、家譜以外の史料による確認が今後必要である。いずれにせよ、この出来事は星野氏と朝倉在地の人々との間に生じていた緊張関係を示唆している。
また、この時に松平遠盛に続いて反乱に加担した人物として、主に杷木地区および三奈木地区の城主の名が確認でき、これらのエリアは吉松家の神領地だったとされる朝倉郷の両隣という位置関係にあるが、この時、吉松家がどのように立ち回ったかの記録は残っていない。
ひとつの可能性として、神領地の性格を持った朝倉郷自体は1288年に星野氏の所領となっても、吉松家が郷長を担ったことも考えられる。
没落した大蔵氏(原田氏)が再び朝倉の支配者として返り咲くきっかけとなったのは、1203年(建仁3年)の鎌倉幕府内部における政変「比企能員の変」である。
原田種直の一族(弟とも伝わる)である原田種雄は、将軍・源頼家の親族として権勢を振るう比企氏と、執権・北条氏との対立構造の中で、北条氏側に比企氏の動向を密告するという政治的決断を下したとされる。この取り組みにより、種雄は勝者となった北条氏より恩賞として筑前国「秋月荘」の支配権(地頭職)を獲得した。
原田種雄は地名に由来する秋月姓を用い、古処山に城を置いたとされる。改姓の具体的な意図は確認できない。
鎌倉幕府の滅亡後、南朝と北朝が並立し、九州の在地勢力も所属する陣営を変えることがあった。以下では、家譜の記述と確認できる政治経過を区別して整理する。
本節では、朝倉地域の支配権を確立しつつあった秋月氏と星野氏が、この動乱期をいかにして過ごし、室町幕府体制下での立場を確立していったかを分析する。吉松家の室町・戦国期における変容を理解するためには、その主君となる秋月氏や星野氏の権力基盤がいかに形成されたかを確認しておく必要がある。
14世紀初頭、後醍醐天皇による倒幕運動に呼応し、秋月氏もまた動乱の渦中へと身を投じた。当初、第6代当主・秋月種貞(または種道)は南朝方に属し、九州における南朝の雄である菊池氏と行動を共にした。
1336年(建武3年)、足利尊氏が九州へ下向して発生した「多々良浜(たたらはま)の戦い」において、種貞は菊池武敏らと共に宮方(南朝)の大軍として参戦した。しかし、少数の足利軍に対し南朝方は統制を欠いて壊滅的な敗北を喫した。種貞は大宰府へと敗走したものの、足利直義軍の追撃を受け、一族郎党と共に討ち死にしたとされる。
この敗戦により、秋月氏は当主と主要な戦力を失い、文字通り「家の断絶」という大きな転換点に直面した。在地領主としての基盤は崩壊寸前となり、源平合戦後の大蔵氏没落の悪夢が再来しかけていたのである。
父・種貞の戦死を受け、家督を継いだ第7代・秋月種高(たねたか)が下した決断は、感情的な復讐ではなく、厳しい現実を見据えた政治的判断に基づくものであった。種高は、劣勢となった南朝を見限り、父の仇敵であるはずの北朝(足利方)へと転じる道を選んだのである。
1359年(正平14年)の筑後川の戦いでは、秋月種高が少弐氏とともに北朝方として参陣したとされる。所属陣営を変更した理由は確認できていない。
秋月氏は政治状況に応じて所属関係を変更した。これを吉松家の後世の動向と同じ原理で説明できるかは、別途検証が必要である。
南北朝の動乱が収束し、室町幕府の体制が安定期に入ると、九州の政治情勢は新たな局面を迎えた。中国地方から勢力を拡大した守護大名・大内氏の台頭である。
秋月氏はこの新興勢力の動きをいち早く察知し、その傘下に入ることにより地位の保全を図った。重要な転機は、第11代当主・秋月種氏(たねうじ)の時代に訪れる。
1429年(永享元年)、種氏は大内氏の推挙を通じて、室町幕府将軍より正式な「秋月の所領安堵」を獲得した。これは、秋月氏が単に実力で土地を占拠する「在地勢力(土豪)」から、公権力によって支配権を法的に認知された「国人領主」へと脱皮したことを意味する。この幕府公認の権威獲得は、後の秋月氏による朝倉周辺での影響力の拡大を後押しすることになる。
かくして政治的・軍事的な基盤を確立した秋月氏は、次なる段階として、地域支配の精神的・宗教的権威を統合する必要性に迫られることとなり、それが、秋月の近隣地・朝倉郷において古くから祭祀権を掌握する吉松家との関係強化、すなわち次節で述べる婚姻政策と「種」字の拝領へと繋がっていくのである。
星野氏に関する歴史的見解は複数あるため、ここではまず星野氏の家臣が書き残した『星野家譜』から読み取れる内容をベースとする。
『星野家譜』は、星野氏が南朝方として菊池氏と連携したと記す。ただし、家譜が示す忠節像と実際の政治行動は分けて検討する必要がある。
星野氏の行動原理は、初代・胤実が後鳥羽上皇から直々に受けた「子孫に至るまで、朝に敵する事なかれ(決して朝敵となるな)」という厳命(家訓)に基づくものであった。
室町幕府(北朝)が九州探題として今川貞世(了俊)や大内義弘の大軍を派遣すると、星野氏は彼らを「尊き君に仇なす大賊」として激しく敵対した。1372年~1373年の「味坂合戦」や、その後の「詫磨原の合戦」では、第6代・実忠や第7代・胤忠が菊池軍と共に探題・大内・大友・少弐の連合軍に夜襲や猛突撃をかけ、多勢の敵軍を幾度も打ち破るという獅子奮迅の活躍を見せている。
家譜には、星野氏が懐良親王、良成親王ら南朝方の皇族を迎えたとする記述がある。具体的な滞在地や関与の程度は、他史料との照合が必要である。
1359年の筑後川の戦いと懐良親王への対応についても家譜に記述があるが、忠誠心を評価する叙述と史実の確認は分けて扱う。
南北朝の動乱が合一(1392年)によって収束し、室町幕府の体制が安定期に入り、守護大名の大内氏や大友氏が九州で有力な権力を握るようになっても、『星野家譜』における星野氏の姿勢は決して揺るがなかった。
秋月氏などが大内氏の傘下に入り「所領安堵」という幕府公認の権威を求めたのに対し、星野氏は「後鳥羽天皇の系統であり、直々に城名や屋形号を賜った」という由緒意識から、大内氏や大友氏、後年の龍造寺氏といった大勢力の幕下(家臣)に入ることを断固として拒否した。
大友氏からの再三の従属要求や政略結婚の誘いすら跳ね除け、時には従属を迫る大友軍の企てを武力で真っ向から打ち砕いた。
『星野家譜』は星野氏の独立性を強調する。一方、他史料には大友氏などへの従属を示す記述もあり、一貫した独立勢力だったとは断定できない。
以上が『星野家譜』が描く理想像であるが、他の史料からは、これとはやや異なる、より現実的な星野氏の姿が浮かび上がってくる。
星野氏は南北朝期においては確かに南朝方として強い結束と忠誠を示したものの、室町後期から戦国期にかけては、周辺の有力勢力との関係の中で、「独立」や「非従属」を必ずしも一貫して貫いていたわけではない。
たとえば、寛正6年(1465年)に大友親繁の部将(阿南惟久)が筑後へ出兵した際、星野職泰はこれに抗しきれず和議を結んで降伏し、大友氏の勢力圏に組み込まれた。この時、「七代までも弓を引くまじ」といった強い服属の意思を示す誓約があったとされており、後世の脚色を含むにせよ従属の証左と言える。
また、戦国時代に入ると、星野氏は大内氏と大友氏という北部九州の二大勢力の間で帰属を揺れ動かすようになる。
大友氏に反抗した星野重泰が大友方に暗殺される事件が起き、その後、大友氏に従う者と、豊前に逃れて大内氏の庇護を受ける者が現れるなど、一族内部が分裂する事態も発生した。
さらに16世紀後半になると、新たに台頭してきた龍造寺隆信の筑後侵入に際して一時これに降り、大友氏の衰退後には島津氏に従属する選択をしている。
これらは単なる「変節」と見るよりも、戦国期の国人領主に共通する、生存のための合理的な判断であったと理解すべきであろう。
豊臣秀吉の九州平定過程では、星野吉実・吉兼兄弟が高鳥居城で戦死した。行動理由を「大義」や「信義」と評価する記述は、家譜の叙述として扱う。
『星野家譜』が強調する忠義・独立の評価は、戦国期の従属関係を示す他史料とは一致しない部分がある。
したがって、「完全な独立勢力を貫いた」という評価は史料的には修正が必要であり、星野氏の実像は、理想と現実のあいだで揺れ動きながら存続を図った、典型的な中世国人領主の一例として捉えるのが妥当である。
なお、星野氏と秋月氏と関係性についてはまとめて後述する。
前節で述べた通り、南北朝の動乱を経て室町幕府体制下での地位を確立した秋月氏は、星野氏という存在を横目にしながらも、秋月周辺での在地支配をより盤石なものとするため、精神的支柱である宗教勢力との結合を図った。本節では、15世紀半ばに行われた吉松家と秋月家の婚姻、および第27代当主より始まる「種」字の拝領が持つ政治的・社会的意義について考察する。これは吉松家が単なる「在地の神官」から、戦国大名・秋月氏の「一門衆(準一門)」へとその性格を変容させる転換点であった。
系図では、吉松定元の娘が秋月種照の正室になったとされる。婚姻の政治的意図を直接示す史料は確認できない。
一方、吉松家にとっても、この婚姻は対応上きわめて合理的な選択であったと考えられる。隣国豊後の大友氏が奈多八幡宮の大宮司家と通婚した事例に見られるように、在地神官が強力な武家権力との補完関係を結ぶことは、戦乱の世において社領と家名を保つために選ばれた対応の一つと考えられる。
さらに、この時、吉松定元には嫡男が存在せず、吉松家は後継者がいないという問題を抱えていたが、この問題の解決に対して秋月氏との婚姻が大きな働きをすることになる。
1461年(寛正2年)、吉松定元の娘は、秋月家当主・種照との間に次男が吉松家へ養子として入った。名を吉松定助とし、吉松家第27代当主となった。
さらに、1463年(寛正4年)、定助は実父にあたる秋月種照より「種助」という名を賜り、吉松種助(たねすけ)となった。
ここで、「種」字下賜という出来事の史料的な裏付けについて整理しておく必要がある。
現在も恵蘇八幡宮の社宝として保管されている『恵蘇八幡宮御縁起』(通称:吉田縁起書、天和2年/1682年作成)の下巻には、この出来事が巻末近くに4行にわたって記されている。内容は、当時の領主・秋月種照が恵蘇八幡宮の祠官であった吉松定助の祈祷の取り組みを称え、秋月家の通字「種」の字を下賜したというものである。
この縁起書の著者は、吉田靱負定俊という吉松家外部の文人・神道家であり、神社の公的記録として編纂されたものである。この点において、同縁起書の記述は、吉松家の内部史料である『吉松系図』とは独立した外部史料としての性格を持つ。
さらに重要なのは、縁起書が「縁起書作成当時の祠官・種政は、定助(種助)から数えて八世にあたる」と明記している点である。『吉松系図』において種助から種政までの系譜を数えると、この「八世」という記述と一致する。
『吉松系図』と『恵蘇八幡宮御縁起』には、「種」字下賜と代数関係について対応する記述がある。ただし両史料の成立は出来事より後であり、独立した同時代証拠とはいえない。
ただし、「傍証の一致」は「史実の確定」とは区別される。縁起書自体が1682年の編纂であり、出来事から約220年後の記録であること、また縁起書の編纂目的が神社の格式の維持・再興にあった可能性を本稿第三章で指摘したことも踏まえると、この一致をもって「種」字下賜の全容が確定したと断言することは慎重であるべきである。本稿では、この外部史料との照合を、吉松系図の当該記述の信頼性を高める重要な傍証として位置づける。
一方、縁起書に記された「祠官・定助の祈祷の功に対する下賜」という具体的な理由については、『吉松系図』が示す年次(1463年・定助2歳前後)と照らし合わせると、時期の整合性に問題が生じる。2歳前後の幼児が祠官として祈祷を行ったとは考えにくいからである。この矛盾については、以下の可能性が考えられる。
第一に、定助の生年(1461年)が系図上の誤記であり、実際にはより早く生まれていた可能性。第二に、「種」字下賜の年(1463年)が誤記であり、定助が祠官として実際に活動できる年齢に達した後に行われた可能性。第三に、縁起書の「祈祷の功」という記述が、定助本人ではなく前代・定元の取り組みを指しており、秋月種照が実子である定助(種助)に対して通字を与えたという形式的な授与であった可能性。
いずれの可能性が正しいかは現時点では確定できないが、「種」字が吉松家の通字として定着したという事実自体は、複数の文書記録および現存する墓石の刻字によって確認できる。
つまり、ここで注目すべきは、それまで約800年にわたり吉松家が通字として守り続けてきた「定(さだ)」の字が捨てられ、秋月家の通字である「種(たね)」が採用された事実である。
「種」の字は、漢の高祖・劉邦の末裔を称する九州の系図上で由緒づけられた武士団「大蔵氏(原田氏・秋月氏)」が、一族の証として代々継承してきた文字である。主君から名前の一字を与えられる「偏諱(へんき)拝領」は主従関係の確認儀礼であるが、吉松家の場合はさらに踏み込み、当主の名そのものを秋月一門のルール(通字)に従わせるものであった。
この改名は、吉松家が古代的な「卜部・中臣」系譜の祭祀氏族というアイデンティティの上に、中世武士団「大蔵・秋月」一門としてのアイデンティティを上書きしたことを意味する。これ以降、約400年にわたり吉松家当主は「種」を名乗り続けることとなる。
『吉松系譜』には、26代・吉松定元の記述として「式部大輔定元」という文字が見える。それ以前の吉松家の人物に「式部」の文字は確認できないため、定助が「種」の字を拝領する前後の時期に、吉松家は秋月家より「式部(しきぶ)」という百官名(ひゃっかんな)を名乗り始めた、もしくは名乗ることを許されたと見られる。
百官名とは、朝廷の官職名を通称として用いる武家社会の慣習であり、主君が家臣の序列や格式を統制するために用いたり、権力者が受領名として授与するものである。
「式部」は本来、宮中の儀礼や祭祀を司る職掌を指す。通常は朝廷から正式な官位(従五位下など)を授かった者が、その官職名(式部大丞など)を名乗る。しかし吉松家の場合は、秋月氏との婚姻関係を機に「式部」を使用し始めていることから、朝廷から直接与えられたものではなく、秋月氏から授与された可能性が高いと考えられる。
秋月氏が吉松家に「式部」の称号を名乗ることを許したことは、吉松家を単なる外部の協力者(同盟者)から、家臣団内部における「祭祀・儀礼担当の重臣」として正式に位置づけたことを示唆している。これにより吉松家は、秋月家中において名誉ある地位を確立し、祭祀機能を通じて領国経営の一翼を担う存在として、その権益を制度的に保障されるに至ったのである。
以上の過程を経て、吉松家は「神に仕える家」でありながら、「秋月家の系統」と「武家の名(種・式部)」を持つ社会的地位を獲得した。この秋月氏との一体化こそが、次節で述べる戦国期の実務官僚化(民部への転身)や、豊臣秀吉による九州平定時の没落の危機へと繋がる要因となっていく。
秋月氏の当主・秋月種時は、星野家(第12代・隆実公)に対して大規模な「所領交換」を持ちかけた。当時の両家の領地は複雑に入り組んでおり、星野家の本拠地近く(生葉郡や竹野郡など)に秋月領の飛び地が存在し、逆に秋月側の近く(上座郡や下座郡、三奈木の庄)を星野家が領有している状態だった。
種時は「互いの本拠地に近い領地に整理すれば、万事において便利である」と合理的な理由を掲げて星野氏へ交渉を打診した。
しかしその裏には、巨大な大友氏との決戦を見据え、上座郡(朝倉郷)の山がちな地形に強固な防衛要塞を築くという秋月氏のしたたかな「遠謀」が隠されていた。
これは上位権力者が命じた一方的な領地替えではなく、独立した勢力同士による国境線再編のための高度な外交交渉であった。
この申し出に対し、星野隆実は「先祖が蒙古襲来の軍功で賜った一生懸命の土地であり、容易には返答しがたい」として重臣たちに相談した。
星野家の重臣たちは、「上座郡の中でも、長安寺や斉明天皇の旧跡、さらには寛成上皇(長慶天皇)が眠る御陵(天皇山)や、先祖の御墳墓がある『下郷(菅生など)』の地だけは、何があっても絶対に渡してはならない」と強硬に主張したとされる。
長安寺や斉明天皇の旧跡を重視していることや、菅生(須川地域)の地名などから、上座の下郷とはつまり、吉松家の神領地とほぼ同一のエリアであると考えられる。
星野家側の記録は、この土地を南朝方皇族や祖先に関わる場所として重視したと説明する。所領交換の判断要因は、経済・軍事面も含めて検討する必要がある。
星野家の重臣たちは、秋月方の重臣である熊江越中守や恵利左近太夫を相手に激しい外交の駆け引きを行い、「下郷を星野家の領地として残す」という条件を秋月側に完全に飲ませた。
こうして同年9月5日、両家は神文を交わして対等な立場で起請文を取り交わし、所領交換の条約が成立した。
この領地交換の際、秋月領として引き渡されることになった「三奈木の庄」などに住んでいた天野氏ら星野家の忠臣たちは、新しい領主である秋月氏には従わず、主家への忠義から先祖伝来の居住地を捨てて、星野氏が死守した「下郷」の領内へと一斉に移住している。
所領交換の経緯は星野家側の記録に詳しいが、交渉条件や独立性の評価は他史料との照合が必要である。
この交渉の結果、朝倉郷のうち吉松家の神領地を含む「下郷」は星野氏の手に残り、それ以外の地域は秋月氏の支配下に入ることとなった。これにより、朝倉地域における両勢力の勢力圏が明確化され、同時に吉松家は、秋月氏と星野氏という二つの独立勢力の狭間に位置する、より複雑な政治的立場に置かれることになったのである。
前節で述べた「種」字の拝領と通婚により、吉松家は秋月家中における「一門衆」としての地位を確立した。しかし、戦国乱世の激化は、吉松家に対し、単なる宗教的権威以上の役割を要求することとなる。
本節では、第27代当主以降用いられてきた百官名「式部」が、第31代当主の時代に「民部」へと変更された歴史的経緯に着目し、吉松家が「祭祀職」から、徴税や民政を担う「実務行政官」へとその性格を大きく膨らませた過程を考察する。
第27代・種助から第30代・種秀までの期間、吉松家当主は代々「式部(しきぶ)」を名乗っていた。
この時期の吉松家の主な役割は、神社の祠官として「秋月家の武運を祈る」ことであり、八幡神の権威によって主君の支配を精神的に正当化することにあった。秋月氏にとっても、吉松家は「祈りのプロフェッショナル」として存在することが、領国支配上の利益と合致していたのである。
しかし、第31代当主・吉松種家(たねいえ)の時代に入ると、吉松家を取り巻く情勢は一変する。豊後の大友氏による筑前への圧力が頂点に達し、在地勢力である秋月氏は総力戦体制の構築を余儀なくされたのである。
『吉松家系図』および『吉松系譜』によれば、31代・種家より、官名が従来の「式部」から「民部(みんぶ)」へと変化している。
律令制における民部とは、戸籍、租税、財政などを管轄する行政機関である。すなわち、吉松家が「民部」を名乗るということは、従来の祭祀権に加え、朝倉郷内の戸籍管理、年貢徴収、物資調達といった「民政(行政実務)」の責任者としての役割を担うようになったことの現れだと解釈できる。
では、なぜこの時期に民部を担うことになったのか。種家の活動時期を1550年頃から1580年頃と推定すると、この期間に重要な出来事が起きている。
1557年、秋月氏は大友氏の猛攻により敗北し、古処山城は陥落した。遺児・秋月種実は毛利氏を頼り周防へ逃れ、これにより秋月氏の所領は一時的に秋月氏の手を離れ、大友氏の支配下に置かれることとなった。
この「権力の空白」とも呼べる事態において、秋月氏の所領を手にした大友氏は、新たに獲得した領地を統治するため、徴税や民政を行う在地の家や人材を必要としていたはずである。大友氏としては、遠隔地である秋月・朝倉地域を直接統治するよりも、在地の有力者を通じて間接支配を行う方が効率的であり、そこで星野氏や吉松家のような在地勢力に行政実務を委ねたことで、吉松家の官名が式部から民部へ変化した可能性が考えられる。
ただし、星野氏と大友氏は関係性が良くなかったという記録もあり、そういった状況で大友氏が、星野氏の地頭支配下にある朝倉郷の吉松家と直接関わりを持ったとは考え難い側面もある。
一方で、史料上では確証を得られなかったが、大友氏が秋月氏を打倒する前に、朝倉郷の支配が星野氏から秋月氏に移り変わっていた可能性も指摘できる。その場合、大友氏は秋月氏が去った朝倉郷の行政を、在地で実務能力を持つ吉松家に依頼したという筋書きも考えられる。
いずれの経緯であれ、秋月氏の一時的な所領損失という政治的大きな政治変化が、吉松家の役割変化に影響を与えた可能性は高いと考えられる。主君不在という危機的状況が、吉松家に対し、祭祀職だけでは不十分であるという認識を迫り、実務行政官としての機能を付加させる契機となったと推測される。
1559年になると、秋月種実が旧領復帰を果たすが、続く32代・吉松種良もまた「民部」を名乗り続けている。これは、この混乱期に培われた吉松家の行政能力が評価され、秋月氏復帰後の朝倉郷の運営体制の中に正式に組み込まれたことを示唆していると解釈できる。
秋月氏にとっても、大友氏との抗争が続く戦時体制下において、祭祀だけでなく徴税・民政を一体的に担える吉松家の存在は、領国運営上の重要な資産となったと考えられる。
系図には、戦国期の当主が「民部」を名乗ったと記されている。これを行政実務への関与を示す記述として検討する。
近世に吉松家の一部が庄屋・保正を担ったことは確認できるが、戦国期の「民部」という百官名と直接つながるかは、追加検証が必要である。
「式部」から「民部」への変貌は、吉松家が中世的な「祭祀領主」から、近世的な「村役人(地方行政官)」へと脱皮するための、歴史的な準備期間であったと評価できるのである。
ここまでの流れから、まずは吉松家から見た星野氏と秋月氏との関係性をまとめると以下のようになる。
秋月氏は、秋月周辺の八幡信仰の中心地として朝倉郷の恵蘇八幡宮を重視し、積極的に支援を行った。吉松家は秋月氏と婚姻関係を結び、「種」字の拝領を通じて、秋月家中における「一門衆(外戚)」あるいは「祭祀・行政を担う重臣」としての地位を確立した。
財政面でも軍事面でも、秋月氏は吉松家にとって大きな後ろ盾となり、両家の関係は単なる領主と神職という枠を超えた、緊密な一体化の様相を呈していた。
一方、星野氏は朝倉郷を含む周辺地域の地頭職を保持していたが、実際に朝倉に滞在して行政を取り仕切っていたのは星野家の家臣たちであり、星野氏本家と吉松家との直接的な関わりは限定的であったと考えられる。
星野氏の本拠地は筑後の星野(現在のうきは市)であり、朝倉郷はあくまで所領の一部に過ぎなかったが、秋月氏との所領交換の際に、星野氏が死守したのは「下郷」すなわち吉松家の神領地を含む斉明天皇や南朝皇族ゆかりの「聖地」であり、吉松家が関連する地域自体には精神的・宗教的な執着はあったものの、日常的な統治や神社経営として星野氏と吉松氏の家同士の関与は薄かったと推測される。
一見すると、地頭(土地の支配者)である星野氏を差し置いて、別の武家である秋月氏と密接な関係を築くということは想像しがたい部分もある。
しかし、近隣の神領地でも類似した事例は確認できる。恵蘇八幡宮と神社の格こそ違うが、奈多八幡宮や宗像大社なども、宮司家が周辺地域の武家や大名と独自の関係を築いていたとされる。神社の宮司家は、単に土地の支配者に従属する存在ではなく、宗教的権威を背景に、複数の権力者と関係を結ぶことで自らの地位を保全する戦略をとることがあった。
吉松家と星野氏・秋月氏の関係は複数の家伝史料に見えるが、各氏の権限や保護関係を示す同時代史料は限られる。
秋月氏と星野氏は、室町期から戦国期に朝倉周辺で活動した。両氏の所属関係は時期によって変化しており、家譜が描く一貫した対照像はそのまま史実とはみなせない。
1500年代初頭の永正年間(1504〜1521年頃)には、地理的に近接する両者の間で大規模な所領の交換が行われた時、これと前後して秋月種時の実の娘(熊江越中守の養女)が星野隆実の正室に迎えられており、両家は所領の再編と婚姻関係を含む強固な同盟関係を築くに至った。
しかし、この同盟関係は長くは続かなかった。後に三奈宜庄などの領地境界をめぐって両家の間で争論が生じ、役人同士の刃傷沙汰にまで発展した。この事態を受け、秋月側が星野隆実の正室(秋月種時の娘)を実家に引き取ってしまい、両家は一時「怨敵」と称されるほど大きく関係が悪化している。
その後、戦国時代後期に入り豊後の大友氏の脅威が拡大すると、両家の関係は再び変化を見せる。1578年(天正6年)の「耳川の戦い」で大友氏が南九州の島津氏に大敗して勢力を後退させると、秋月種実と星野吉実(鎮胤)らは大友氏から離反して島津氏に心を寄せるようになり、反大友陣営として連携を深めた。1581年(天正9年)の「原鶴合戦」においては、筑後川を挟んで大友軍に対し秋月・星野の両軍が共闘して激しく衝突するなど、周辺の有力勢力の動向に応じて戦略的な結びつきを復活させている。
このように、秋月氏と星野氏の関係は、対照的な政治姿勢を持ちながらも、所領の境界を接する国人領主として、婚姻や領地交換による同盟と、境界争いによる敵対、そして大勢力の動向に応じた共闘を繰り返す、複雑かつ現実的なものであった。
この二つの勢力の並存という構図は、吉松家にとって重要な意味を持つ。吉松家は古来より朝倉郷で祭祀権を掌握してきたが、室町期以降、地頭職を持つ星野氏と、周辺で台頭する秋月氏という二つの世俗権力の狭間で、いかにして自らの地位を維持し、発展させるかという課題に直面することになる。次節以降で述べるように、吉松家は特に秋月氏との関係を深めることで、この複雑な政治状況を乗り切ろうとしたのである。
1587年、豊臣秀吉の九州平定により秋月氏は日向国へ移封された。本節では、その前後に吉松家の役割と居住地がどのように記録されているかを検討する。
秋月種実は島津氏と連携し、筑前・筑後・豊前に影響を及ぼしたとされる。1587年には豊臣秀吉軍が九州へ進み、岩石城が攻略された。
岩石城は秀吉軍に攻略された。益富城の一夜城に関する話は後世の伝承であり、秋月氏降伏への影響は確定できない。
この大きな実力差の露呈と主君の戦意喪失は、在地で戦況を注視していた吉松家や地域住民にとっても重要な瞬間であった。秋月氏の敗北が不可避となったこの事態を受け、吉松家は迅速に現状を洞察し、豊臣政権下における新たな統治体制への適応を模索し始めることとなる。
国力差を悟った種実は剃髪して白装束に身を包み、恭順の意を示した。この際、秋月氏の家名存続をかけた切り札として差し出されたのが、天下三肩衝の一つと称される茶器「楢柴肩衝」、名刀「国俊」、そして人質としての娘・竜子であった。
秋月氏は筑前から日向国へ移封され、所領規模も縮小した。石高の数値は史料によって確認が必要である。
秋月氏の日向移封は、単なる大名家の移動にとどまらず、家臣団とその家族を含む大規模な集団移住を伴った。この大きな政治変化の際、朝倉に残留する本家とは別に、主君に従い海を渡った吉松家の一族が存在した。
現在、宮崎県串間市には国指定重要文化財として「旧吉松家住宅」が保存されており、同家の由緒について公式サイトは次のように記述している。
「吉松氏は、豊臣秀吉の九州侵攻に敗れた秋月種長が甘木(福岡県)から高鍋・串間へ配置替えとなった時に秋月氏に従って串間に入ったと伝えられ、江戸時代を通して武士格の家柄です。」
吉松という姓が全国的に見ても希少であること、および当該移住の時期・経緯が朝倉吉松家の歴史と符合することを考慮すれば、この串間の吉松氏が朝倉吉松家と血縁的なつながりを持つ可能性は高い。ただし現時点では直接的な系譜史料による確認には至っておらず、今後の調査に委ねる部分が残る。
また、秋月氏の移封後、朝倉に残留した吉松家の中心人物は、当時20歳前後であった第32代・吉松種良である。主君の退去という非常事態における重大な時期の意思決定が、依然として壮年期(40〜50歳代)にあったはずの第31代・種家を差し置いて息子の種良を中心に行われたとは考えにくい。この状況から推測すると、第31代・種家は長男・種良を朝倉に残し、自身は秋月氏と共に宮崎へ下向した可能性が考えられる。確証を得られる史料は現時点では確認できないが、当時の主従関係の慣行と系図上の年齢関係から導かれる仮説として提示しておく。
かくして秀吉の九州平定に伴う秋月氏の没落は、400年続いた朝倉の支配構造を終焉させた。同時に、吉松家は「朝倉に残留する者」と「宮崎へ移住する者」へと物理的に分断されることとなったのである。
秋月氏の移封は、在地に残された吉松家に対し、存亡をかけた構造改革を強いるものであった。新領主・小早川隆景の入部と豊臣政権による新秩序の導入は、中世的な「祭祀権と行政権の未分化状態」を容認しないものであったからである。本節では、第32代当主・吉松種良が断行した「家の機能分割」という対応について、その歴史的背景と具体的な再編プロセスを考察する。
1587年、後ろ盾であった秋月氏が去ると、吉松家は不安定な立場に置かれた。それまで同家は、恵蘇八幡宮の大宮司としての宗教的権威を保持しつつ、広大な神領(免上地)を星野氏の配下として支配するという中世的特権構造を享受していた。
しかし、秀吉が進めた太閤検地の理念において、こうした不明瞭な権益は真っ先に否定される対象であった。検地とは土地の生産力を石高として一元的に把握し、年貢負担体系を確立する政策である。有力な宗教勢力であっても寺社領は再編・削減され、領主が保証する「朱印地」へと切り替えられた。
また、旧来の権利を主張し続けることは、新体制に対する反乱因子とみなされ、一族の根絶を招く恐れがあった。種良にとって、土地と地位、そして何より一族の存続を維持するためには、従来の特権を放棄し、新たな役割へと自己を再定義することが急務であった。
小早川隆景による筑前入部後、1587年から順次実施された太閤検地(指出検地)は、従来の荘園制的な土地支配の論理を根底から解体するものであった。
とりわけ寺社領については、豊臣政権が発給する「朱印状」による再認定を受けない限り、従来の神領は原則として無効化される仕組みであった。
吉松家が中世以来依拠してきた「免上地七百余町」という権益は、この制度変更によって法的根拠を失ったと考えられる。
実際、筑前においては正覚寺・宮地嶽神社など複数の宗教勢力が同時期に所領の大幅削減を受けており、吉松家の神領喪失はこの地域的潮流の一環であった。
この危機に対し種良が選択したのは、吉松家が一体として担ってきた「神職機能」と「行政官機能」を切り離し、それぞれを異なる生存経路に配置する分担戦略であった。彼は弟の種栄と長男の種仲を軸に、以下の分離分割を実行した。
種良は秀吉配下の筑前支配者・小早川隆景の入部を機に、大規模な行政改革の渦中に置かれた。小早川隆景は毛利元就の三男として中国地方で育ち、筑前は新たな知行地であったため、朝倉土着の有力者の協力は統治上重要であった。
なお、隣国の豊前や肥後では土着勢力の反乱が起きているが、朝倉地域ではそのような形跡が見られない。これは吉松家をはじめとする在地勢力が隆景の要請に応じ、新体制へ順応した結果と考えられる。これまで神領地の領主として朝倉郷長だった種良は、朝倉・須川の有力一族である古賀新左衛門重儀に村々への伝達役(触口)を依頼するなど、円滑な統治体制の構築に寄与した。
この過程で種良自身は田中村へ移住し、田中・宮野・烏集院の三村の「保正(村落統治者)」、および朝倉地域の「郷代官(藩側役人)」、さらに恵蘇八幡宮の「総大宮司(名誉職)」を兼任した。宮野・烏集院は吉松家古来の勢力基盤であるが、田中村を新たな拠点とした具体的な経緯については現時点では確認できない
当時の時代背景と照らし合わせると、太閤検地によって、各家に与えられる土地の見直しが行われた結果、宮野周辺の農地は旧来から農業を営んだ家が所有することになり、神職から新しく農家に転身する吉松家に与えられた地元がこの「田中地区」だったことが推定される。ただし、田中地区に関する歴史的情報は乏しく、そもそも田中地区の開墾時期や田中村がいつどのようにして始まったのかは不明であるため、確証を得るには今後の史料発掘を待つ必要がある。
また、種良が恵蘇八幡宮の実務から離れた背景には、経済的な維持の困難さに加え、恵蘇八幡宮が旧主・秋月氏が熱心に信仰していたという観点で、旧勢力の色彩が強い同宮から一定の距離を置くことで、新支配者への恭順を示す意図があったと推察される。
種良は弟・種栄を自身の猶子(法的後継者)として宮野に留め、宮野神社の祠官をはじめとする祭祀機能を継承させた。これにより成立したのが、後に種政や定恒(種徳)を輩出する「宮野吉松家」である。
しかし、豊臣秀吉の検地により神領地は没収されていたため、神職としての経済基盤は脆弱であったと推測される。
一方、嫡男・種仲は父と共に田中村へ拠点を移し、「田中吉松家」を創設し、従来の「民部」という中世的な官職名による権威から脱却し、近世的な村落統治者である「庄屋(保正)」としての地位へと移行している。
これは、戦国期に「民部」として蓄積された徴税・管理・調整能力が、近世村落社会における庄屋・保正的機能へと転用されたことを意味する。
すなわち、吉松家の近世的生存は、単なる帰農ではなく、中世的な在地実務能力を近世村落行政へ再配置する過程であった。
種良は種仲の成長に伴い自らの役職を譲ったが、種仲は惜しくも若くして亡くなった。その後、宮野・烏集院の保正職は次男・種嗣が継承したものの、その世襲は短期間で途絶え、古賀氏へと移譲された。田中村の保正職については、種仲の遺児・種為が幼少であったため、種良が一時的に再任したと見られ、恵蘇八幡宮の総大宮司は宮野吉松家の種栄に移譲した。なお、郷代官職については種仲以降の吉松家による継承は確認できない。
機能分化を遂げた吉松家であったが、前述の通り、神領を喪失した宮野吉松家の経済基盤については不明な点が多い。
近世を通じて神職家の多くは、祭祀だけでは食べていけない「半農半神」の状態が一般的であり、村落内では「教養ある上層農(知識人)」として、教育や医療、勧進などの副業を行っていたことを論証していることから、宮野吉松家も近しい形であったであろう。
なお、「神職家」が「庄屋層」へ変わることも、近世初頭でよく見られる現象であり、吉松家の変遷は中世在地領主が近世的秩序へと適応した典型的類型といえる。
種良が実質的な神社運営から段階的に離脱したことは、系図や関連史料の記述から推察されるが、『吉松系図』は、種良が「総大宮司」職を種仲、さらに種栄へと継承させたことを強調している。
当時の恵蘇八幡宮は、秋月氏という後ろ盾を失い、検地によって経済基盤を剥奪されたことで、祭祀そのものが中断あるいは著しく停滞していた可能性が高い。この状況を裏付けるのが『吉松系図』の以下の記述である。
「恵蘇八幡宮神技式目日興田中之大宮司記、奉御供説祭儀…行祭目之席等相定處審也」
(田中の大宮司が、神技式目を記し、供物の捧げ方や祭祀の手順、席次を詳細に規定した)
田中の大宮司とは、田中村の吉松家(種良と種仲)を指すと仮定すると、これは、田中村に移った大宮司の吉松家が、恵蘇八幡宮の祭祀の実践ができないが、この期間による伝統の断絶を防ぐべく儀礼の知識を、記録・保持しようとした防衛的措置であったと解釈できる。
吉松種良・吉松種仲の意図を直接示す史料はなく、祭祀再興を見据えた行為だったかは確認できない。
吉松家と古賀氏の関係は家譜などに記されるが、計画的な同盟だったかは確認できない。本節では、両家の関係を示す記録を整理する。
種良が連携を求めたのは、吉松家が豊臣秀吉に所領を没収される約30年前に、須川地域に土着していた古賀新左衛門重儀であった。古賀氏は少弐氏(武藤氏)の末裔であり、少弐氏が没落した時期に飯塚の山奥に隠れて帰農した後、朝倉郷の大宮司兼朝倉郷長の民部・吉松種家を頼り、朝倉に住み着いたとみられる一族である。
この朝倉の古賀氏については、『吉松系図』にて以下のように書かれている。
当天正之項而自御笠郡唐古賀邑興古新云者漂白之砌来テ須川邑住願 (古賀新左衛門云者也古賀氏之先祖也自唐之古賀来故苗字謂古賀場所之在苗也) 頼寄テ民部種家也此故自種家使古新致朝倉郷觸口筆役散役也卜云 其後当天正十五丁亥年豊富朝臣平秀吉公筑紫進発之時被没収所領其後所小早川高影公領当郡之時纔總大宮司鄉長而己執行送年月之処慶安四辛卯年依種良卒去為種仲早世無何時觸口之役者古賀氏勤大宮司者種栄勤也(誤写と推定される箇所は修正済)
現代語訳(古賀氏関係部分のみ):天正(天文の誤記か)年間のある時、「古新」と称する者が、漂泊の末に須川村へ来て住みついた。この者は「古賀新左衛門」といい、古賀氏の祖先である。出身地が唐古賀(現在の太宰府・通古賀)であるため、苗字を古賀と称している。つまり、旧来の居住地がその苗字の由来である。この古新は、吉松種家を頼って朝倉に身を寄せた。そのため、種家の命によって古新は朝倉郷に赴き、その縁から触口(農民代表・連絡係)・筆役(書記)・散役(雑務役)を務めたという。その後、天正十五年(1587年)、豊臣秀吉が筑紫へ出陣した際、吉松家は所領を没収された。その後、慶安四年(1651年)以降、朝倉の触口の役は古賀氏が勤め、大宮司は吉松種栄が勤めた。(一部省略)
まず、古賀新左衛門が吉松種家を頼った理由について考察する。その主要な理由として、以下の点が挙げられる
同祖伝承: 古賀氏・吉松氏ともに中臣氏を祖先としており、同族意識を有していた
宮野神社の存在: 吉松家が大宮司を務める宮野神社は、共通の祖である中臣鎌足による創建と伝わる。また、御祭神の天児屋根命は両氏の祖神であり、宗教的・精神的な帰依先が一致していた。
吉松家の社会的地位: 当時の吉松家は秋月氏の庇護下にありながら、名目上の「朝倉郷長」という地位にあった。
裏切りが常態化した戦国時代において、同祖かつ藤原鎌足ゆかりの神社を奉じる吉松家は、山間部から移住先を求めていた古賀氏にとって、最も信頼に足る存在であったと推察される。また、吉松家が郷長としての権限(居住地の配分権など)を有していたことも、古賀氏が同地を選んだ現実的な要因であろう。
次に、朝倉に住み着いたばかりの古賀新左衛門がすぐに触口などの役を担ったことについて考察する。『古賀家譜』によれば、古賀新左衛門は鎌倉時代に大宰少弐を務めた少弐氏の末裔とされる。彼が朝倉に移住後、速やかに「触口(ふれぐち)」や「筆役」「散役」といった実務職を担った事実は、この出自の裏付けとして重要である。
古賀氏が担ったとされる筆役・触口には読み書きや計算が必要だったと考えられるが、その能力を出自や家格から推定することはできない。
さらに、当時の政治情勢もこの登用を後押ししたと考えられる。前述した通り、筆者の推定では、吉松家が「民部(行政)」を担うようになったのは、大友氏による朝倉郷占領が始まった1557年である。 それまでの経緯を整理すると、以下のようになる。
1554年:古賀新左衛門が朝倉に移住
式部(神事・祭祀)が主体
1557年:大友氏の占領により秋月氏が離脱
民部(行政)への急な転換
1557年、それまで行政を担っていた秋月氏の勢力が不在となったことで、吉松家は急遽、慣れない行政実務(民部)を担わざるを得なくなった。長年、神職(式部)を本分としてきた吉松家にとって、実務能力に長けた人材の確保は急務であったはずである。
移住からわずか3年という短期間で古賀氏が行政官として重用されたのは、吉松家の体制転換という「組織側のニーズ」と、少弐氏末裔としての「古賀氏の教養」が合致した結果と言える。この即戦力としての登用実績こそが、古賀氏が単なる落人ではなく、高い文化資本を持つ少弐氏の末裔であったことを強く証左している。
また、吉松家は後の豊臣秀吉による九州平定で朝倉郷の領有権を没収され、混乱を極めたことが推定されるが、この時の吉松家当主・種良は、新しい体制となる朝倉郷にて、以下の機能分担を成立させた。
吉松氏:郷代官として広域行政を統括しつつ、各村の庄屋として内部統治を固める。
古賀氏:農民側の代表である「触口(後の大庄屋)」として、朝倉の行政を牽引。
この関係は、結果的に若き種良の職能と老練な古賀新左衛門の政治力を組み合わせた合理的な補完体制となった。なお、この体制構築後に古賀氏が須川に植えた松が平らに成長したことが「比良松(平松)」の地名の由来とされている。
秋月氏の同盟者であった筑後の星野氏もまた、秀吉の九州平定で打撃を受けていた。星野家の家譜によれば、星野吉実が高鳥居城で討ち死にした後、その子・星野胤吉は肥後へ逃れていたが、1588年(天正16年)の大晦日に朝倉・須川の地へと到着したと伝わる。
直接的な記述や伝承こそ残されていないものの、当時、星野家が居住した集落には、星野家初代の星野胤実が創建したと伝わる高木神社が鎮座していおり、このことから、没落して居場所を失った星野氏の末裔が、先祖ゆかりのこの神社を拠り所として帰農したという解釈は、状況証拠として一定の説得力を持つ。
民部や郷代官を担っていた吉松家は、この星野氏の帰農を支援し、彼らが村落指導者(庄屋層)として再定着するための仲介役を果たしたことが伺える。
その後、星野氏は後に朝倉の行政において重要な役割を果たすようになるが、これも古賀氏同様、元武家エリート一族としての教養や識字・計算能力が新体制下の行政ニーズに合致したためと考えられる。
以上の過程から、安土桃山期から江戸初期の朝倉地域では、吉松家をハブ(中核)として、没落した旧武士層(古賀氏・星野氏)が「帰農」を介して村落指導者へと転身するネットワークが形成されていたことが理解できる。
帰農後に村役を担った家があったことは確認できるが、武士期の能力が直接継承されたかは個別に検証する必要がある。
在地の村役人層と近世初期の行政移行との関係は、他地域との比較を含む追加検証が必要である。
戦国乱世における吉松家の戦いは「物理的な一族生存」を賭けたものであったが、徳川幕府による泰平の世が到来すると、その戦いの性質は大きく変化した。それは歴史的記憶の保存に向けた取り組みである。武威や神威が社会的効力を失っていく中で、吉松家がいかにして自らのルーツを定義し、後世へと語り継ごうとしたのか。本節では、江戸前期の吉松種政と、後期の吉松直江という二人の人物による系図編纂事業に焦点を当て、その歴史的意義を考察する。
寛文8年(1668年)、吉松種政は古い系図を書写したとされる。近世には八幡信仰の祈願内容や神職を取り巻く制度が変化しており、系図書写の背景の一つとして検討できる。
かつて秋月氏や戦国武将たちが競って寄進した神領は失われ、祭祀は縮小の一途をたどっていた。金銭的な基盤も政治的な後ろ盾も失った吉松家に残されたのは、「由緒」という名の記憶だけであったが、その記憶すらも風化の危機に瀕していた。種政が手にした古い吉松家の家系図(1540年頃成立と推定)は、虫に食われ、朽ち果てる寸前の状態であったという。
種政は、朽ちかけた系図の書写と、散逸しかけていた口伝の記録に着手した。この写本を、本稿では便宜上『種政系図』と呼ぶ。これは第3節の史料整理でも述べた通り、後に直江が編纂した『吉松系図』の底本となったと推定される史料である。
確認しておきたいのは、種政が単に歴代の名前を羅列しただけでなく、安土桃山期の政治体制の変化を経験した第32代・吉松種良(たねよし)の取り組みに焦点を当て、いかにして神職と行政を分離し、豊臣・徳川という新体制下で家を維持したかという「対応の記録」を詳細に書き加えた点である。
吉田家による神職免許制度と、吉松種政が縁起に署名したことの関係は考えられるが、署名の意図を示す記録は確認できない。
1682年の『恵蘇八幡宮御縁起』巻末には、吉松種政の名が左座祠官として見える。署名が持つ制度上の意味は追加検証が必要である。
これにより、斉明天皇や天智天皇にまつわる朝倉の土地の記憶は、正統な恵蘇八幡宮の「公的記録」として固定化されるに至った。
しかし、本論ですでに触れた通り、この『恵蘇八幡宮御縁起』に記載された内容は、吉松家が代々語り継いできた伝承とは若干の相違が見られる。特に天皇家の関わりが強調されている点について留意する必要がある。
『恵蘇八幡宮御縁起』の記述には神社再興期の編纂意図が反映された可能性があり、他史料との照合が必要である。
いずれにしろ、種政は、1668年に代々の吉松家の伝承を『種政系図』に書き、その後、1682年に『種政系図』に書いた家の伝承とは異なる史実が書かれた『恵蘇八幡宮御縁起』に署名をしたことになる。
両資料の記述の相違について確たる史実は不明であるが、種政が家伝と公的縁起との間で整合性を取る必要性に直面していた可能性が示唆される。
種政の時代から約170年が経過した江戸後期、吉松家は新たな転換期を迎えていた。田中吉松家の一族は、故郷・朝倉を離れ、商都・博多へと移住していたのである。彼らは医師や商人として都市生活に適応していったが、それは同時に「土地」との精神的な切断を意味していた。
この状況に対応したのが、田中吉松家の吉松種煕の娘であり、後に博多で女医(産婦人科医)として活動したとされる吉松直江である。当時、女性が医業に従事することは稀であったが、直江については第七章で改めて詳述する。
また、吉松直江が編纂したとする説のある系図はその冒頭に『大蔵姓系譜(おおくらせいけいふ)』という表題を付けた点は注目に値する。これは吉松家が、自分たちのルーツは漢の高祖・劉邦や秋月氏に連なる系図上で由緒づけられた武士団「大蔵氏」にあるという、由緒意識の表れであったと考えられる。
『吉松系図』に書かれた宮野吉松家の最後の人物は吉松種一だが、この人物は墓石を確認する限りでは1806年に亡くなっている。種一の後に大宮司を務めたのは吉松種昔(1777年生、1847年没)という人物であるが、種一には子がいなかったとされる。
種昔は「但馬」を名乗り、「種」の字も保持しており、本流後継者として位置づけられた可能性が高い。血縁上の父については確定証拠を欠くものの、墓地刻字・戸籍・年代関係の整合性から、種昔は吉松林作の子であり、種一に子がなかったため本流後継として入ったという案を中心仮説として採る。すなわち、系図上では種一の養子・後継候補として本流側に置きつつ、血縁上の関係として「林作の子」と注記するのが適切である。
本節では、吉松種徳と吉松定恒の関係、1767年の荒神祠刻字、近世の生業について確認できる資料を整理する。
1767年の荒神祠には「定恒」の名が刻まれている。吉松種徳と同一人物とする整理が有力だが確定していない。また、改名の理由を秋月氏との関係から説明する直接史料はない。
第一に、荒神(こうじん)をめぐる記録である。吉松系図および関連史料によれば、種徳は明和4年(1767年)、宮野の屋敷の庭に「荒神様」を勧請・鎮座させたとされる。荒神は土地や家を守護する神であり、特定地域の土地神としての性格が強い。
一方、星之原(ホシノハル)の荒神については、史料批判上の重要な留保が必要である。元禄7年(1694年)に大庄屋・古賀仁右衛門高重によって編纂された地誌『朝倉紀聞』には、星之原に荒神社があり「土之御祖神(つちのみおやのかみ)」が祀られていると記載されている。土之御祖神は、大年神の系譜に連なる大土神の別名であり、土壌の母神あるいは土地の守護神としての性格を持つとされる神である。
この記録の成立は元禄7年(1694年)であり、種徳の誕生年(1728年)よりも34年前にあたる。したがって、星之原の荒神社は種徳以前からすでに存在していたことが確認され、種徳が「新たに鎮座させた」のは屋敷の庭の荒神のみである可能性が高い。
種徳と星之原の荒神との関係については、現時点では以下の解釈が考えられる。第一に、種徳が既存の星之原荒神社に改めて関与・奉斎した可能性。第二に、吉松系図における「二箇所への鎮座」という記述が、新規の勧請と既存社への関与を同列に記したものである可能性。第三に、系図の記述そのものに後世の混同が生じている可能性である。いずれにせよ、星之原の荒神については「種徳による新規鎮座」と断定することは史料的に慎重であるべきであり、今後の調査を要する問題として保留する。
ここでさらに注目すべき事実がある。宮野吉松家の墓石の刻字によれば、種徳の父・種晟(38代・官名:主殿)の没年もまた明和4年(1767年)と確認される。すなわち、屋敷の庭への荒神勧請の年は、父の死の年と一致しているのである。
この時期の一致については、以下の複数の解釈が成り立つ。
父とみられる吉松種晟の没年と荒神祠の建立年はいずれも1767年だが、両者の因果関係は確認できない。
なお、種徳(定恒)の子にあたる世代、すなわち種一および種昔までは「種」の通字が使用されていた。本資料では、種徳=定恒(1728年生、1785年没)を第39代と位置づけ、その後継として種一(1763年生、1806年没)が本流を継ぎ、種一に子がなかったため種昔(1777年生、1847年没)が中継的後継者として本流に入ったと整理する。荒神鎮座(1767年)以降の世代からは、吉松家全体で「種」の通字が使われた形跡はなくなっている。
この整理において重要な点として、種昔は本流側に位置づけるものの、血縁上は林作の子候補(有力仮説)であり、種一の養子・後継として本流に入ったと推定される。すなわち種昔は、林作家流と本流という二重の帰属を持つ人物として理解するのが適切である。
また、林作の子・和作(1788年生)は、種昔の家(本流)を継いでいない点に注意が必要である。林作家流は本流とは独立した家流として宮野に残り、和作→和助→倉吉という系譜をたどる。
吉松林作と吉松種徳の続柄は未確認である。戸籍・墓碑から吉松和作、吉松和助、吉松倉吉の関係は整理できるが、林作から和作への接続と現在の宮野吉松家への連続性は作業仮説である。
前節では、第39代・種徳(定恒)が通字「種」を放棄した事実を通じ、宮野吉松家内部に生じた意識変化について論じた。しかし、通字の放棄が直ちに神職の放棄を意味したわけではない。宮野吉松家は、その後も幕末の動乱期まで神職としての役割を細々と継続していた。
本節では、明治期の神社制度再編と、記録に見える吉松駿河・吉松但馬の関係を検討する。両者のその後の居所や墓所は確認できていない。
徳川の世が長く続き、戦乱が過去のものとなると、神社の社会的役割は変質を余儀なくされた。かつて戦国武将たちが八幡神に熱狂した主な理由は、それが勝利をもたらす「軍神」だったからである。しかし、「泰平の世」において軍神の需要は消失した。
人々の関心は「武運長久」から「五穀豊穣・家内安全」といった日常的利益へと移行する。秋月氏という強力な庇護者を失い、太閤検地によって神領も失っていた宮野吉松家にとって、この信仰のソフト化はさらなる経済的困窮を意味した。「神職」という格式だけでは生きていけないという構造的限界が恒常化する中、宮野吉松家は農業への依存度を高めざるを得なくなっていた。
そこへ追い打ちをかけたのが、幕末から明治にかけての明治政府による神社制度の抜本的な再編である。明治政府は神社を国家祭祀の制度内に組み込み、神職の任用を家の世襲から国家・府県による選補任へと改めていった。
この制度変更は、地域に根ざした伝統的な世襲神職にとって、従来のあり方を根本から揺るがすものであった。
では、宮野吉松家における世襲神職は、具体的にいつ途絶えたのか。地域史料『聖蹟と朝倉』には、「吉松駿河」とその子「吉松但馬」を最後として絶えたと記されている。彼らの実在は、以下の史料から裏付けられる。
1853年(嘉永6年)の石祠: 宮野地区の朝闇神社に現存する石祠に「大宮司 吉松駿河正」の名が刻まれている。
1864年(元治元年)の記録: 田中由利子氏の研究によれば、香椎宮への奉幣使派遣の際、行列参加者として「吉松駿河」「吉松但馬」の名が確認できる。
時系列と照らし合わせると41代・種昔が亡くなったのは1847年(71歳)であり、1853年に石祠の刻字で存在が確認できる「吉松駿河」は第42代にあたり、1840年頃から祠官になったと考えられる。代数換算からすると「吉松但馬」は第43代に相当すると考えられ、1853年および1864年の史料記録から、この親子が幕末の動乱期にかけて神職として活動していたことが文献上確認できる。
本研究における大きな謎は、この「駿河」「但馬」という官職名を名乗る親子の実名(諱)や、その後の動向を示す記録が、現時点で確認できない点にある。
「駿河」「但馬」の登場は、『吉松系図』の完成よりも後であるので、もちろん系図への記載はない。頼みの綱である宮野吉松家の戸籍(明治初期)を筆者が調査しても、神官を務めたらしき人物や親子は見当たらない。さらに不可解なのは墓地である。宮野吉松家の墓地には、歴代当主の墓石が多数現存し、官名と実名が誇らしげに併記されている。
吉松藤原但馬守種○(推定:但馬種次)
吉松壱岐守種生
吉松主殿種晟
吉松但馬定恒
吉松但馬種一
吉松但馬正種昔
これらは第36代から第41代まで連なる。しかし、続くはずの「第42代駿河」「第43代但馬」に該当する墓石だけが、なぜか存在しないのである。彼らはどこへ消えたのか。
ここで注目すべきは、宮野吉松家墓地に残る墓碑銘の性格である。墓地の刻字を確認すると、そこには神道的な名称と仏教的な法名が混在している。
たとえば、歴代当主や神職的性格をもつ人物については、「阿郡元気神吉松修理種正霊社神」「吉松壱岐守種生」「吉松但馬定恒」「阿南元気神吉松但馬種昔」など、官名・実名・神号的表現を伴う刻字が見られる。一方で、配偶者や近親者、あるいは一部の男性については、「釈妙恵信女」「寂節利信女」「釈恵空居士」「釈妙覚信女」「釈芳山信士」など、仏教的な法名を用いた刻字も多く確認できる。
このことは、宮野吉松家が神職家でありながら、近世以前の地域社会に一般的であった神仏習合的な宗教環境の中で存続していたことを示唆している。すなわち、吉松家は神社祭祀を担う家であると同時に、死者供養や墓制においては仏教的な形式とも共存していたのである。
この墓地のあり方は、明治初年の神仏分離政策および廃仏毀釈の衝撃を考える上でも重要である。近世までの神職家は、必ずしも純粋な「神道家」として存在していたわけではなく、地域社会の中で神仏習合的な実践を含みながら祭祀を担っていた。したがって、明治政府によって神仏分離が制度的に進められ、神職のあり方が国家祭祀の枠組みへ再編されていく過程は、宮野吉松家のような在地の世襲神職にとって、単なる職制変更にとどまらず、自らの宗教的実践や家のあり方そのものを再定義させる大きな転換であったと考えられる。
もちろん、墓碑に神道系名称と仏教系法名が混在していることだけをもって、駿河・但馬父子が神職を退いた理由を直接示すことはできない。しかし、宮野吉松家墓地に見られる神仏習合的な痕跡は、明治の神仏分離・廃仏毀釈・神社制度再編が、同家にとって相当な思想的・制度的圧力であったことを理解するための補助線となる。
この視点に立てば、駿河・但馬父子の時代に世襲神職としての系譜が途切れたことは、単に個別の家の事情だけではなく、近世的な神仏習合の世界から、近代的な国家神道体制へと移行する過程で生じた、在地社家の構造的な転換として捉えることができる。
この空白を解く鍵は、明治維新政府が推し進めた宗教政策と身分制度改革にあると考えられる。関連する制度変更として、1870年(明治3年)の太政官布告による受領名・官名使用の禁止令と、翌1871年(明治4年)の「世襲神職の廃止」である。
明治政府は、神社を国家祭祀の制度内に組み込み、神職の任用を家の世襲から国家・府県による選補任へと改めていった。1871年(明治4年)の世襲神職廃止は、その象徴的な政策であり、地方の社家にとっては、代々の家職として神社を守るという従来のあり方を大きく揺るがす制度変更であった。
この制度変更によって、すべての旧社家が直ちに排除されたわけではない。しかし、小規模な村社・郷社を支えてきた在地神職にとって、家格・通称・地域的慣行に基づく権威は相対化され、近代的な神社制度の中で再編を迫られた。駿河・但馬父子の記録が幕末から明治初期を境に途切れることは、この制度的変化と無関係ではなかった可能性がある。
同時に、身分制度解体の一環として「駿河」「但馬」といった受領名(国名を冠した通称)の使用を厳禁した。
同じ福岡の高祖神社(上原家)でも同時期に官名の使用を廃止していることから、駿河・但馬父子もまた、墓石を建立する頃にはその名を公的に名乗れなくなっていた可能性が高い。
この「官名禁止」という仮説に基づき、宮野吉松家の墓石群を調査すると、時代的に符合する候補として吉松和三郎(1816年生、1874年没、「栄三父」と刻字)が一時検討された。しかし後述の理由から、この説は現時点では可能性が低いと判断している。
吉松和三郎
1816年生、1874年没、「栄三父」と刻字
墓地情報を精査すると、吉松和三郎(1816年生、1874年没、「栄三父」と刻字)が駿河に、その子・栄三が但馬にあたるという可能性が一時検討された。しかし、この説には以下の三点から現時点では可能性が低いと判断する。
第一に、和三郎の墓石があまりに簡素であり、歴代の神職祠官に見られる威厳ある墓石と大きく異なる。第二に、「栄三父」と刻まれているにもかかわらず、当の栄三自身の墓石が確認できない。第三に、栄三の弟とみられる栄次の墓石は存在し、さらに後の世代の栄助の名も戦死者名簿に確認できるため、栄三だけが不自然に空白となっている。
より妥当な整理として、本流40代中継の種昔(1777年生、1847年没)の子候補が「吉松駿河(実名不明)」、その孫候補が「吉松但馬(実名不明)」にあたるが、神職廃止に伴う社会的変動のなかで宮野を離れ、他所で没したために宮野吉松家墓地に墓石が残っていないと考える。つまり、彼らは「存在しなかった」のではなく、「文献上は存在が確認されるが、行方が追えなくなった人物たち」である。
なお、和三郎(1816年生、1874年没)は、林作家流の「林作→和作→和助→倉吉」とは別系統の人物として整理され、林作家流の一員としては位置づけない。林作家流はあくまで和作・和助・倉吉の系譜として把握する。氏名から推察する限り、和三郎は和作家流と近縁であった可能性はあるものの、現段階では和作の子・弟のいずれとも断定できない。したがって本稿では、和三郎を林作家流の確定系譜には組み込まず、別系統または未確定人物として保留する。
また、1900年代前半生まれの吉松政幸氏(中宮野集落出身)の伝承によれば、幼少期に周囲の大人から「あんたは、タジマさんのところのせがれだな」と呼びかけられ、敬意を払われていたという。「タジマさん」とは但馬を名乗った神官を指すものと解釈される。
吉松政幸と吉松駿河・吉松但馬との直系関係は戸籍で確認できていない。「タジマさん」に関する話は地域口承として記録し、離郷の経緯や人間関係を示す証拠とはみなさない。
神職としての吉松家は、駿河・但馬父子以降、公文書や公的な記録からその名が見られなくなったが、一族そのものは没落・離散することなく存続した。
宮野吉松家では、明治期の制度変更と前後して世襲神職としての記録が途切れ、以後は農業に従事したとみられる。ただし、その選択過程を直接示す史料は確認できていない。
明治期以後に農業へ移った経緯は、世襲神職制度の廃止との関連が考えられるが、駿河・但馬父子の具体的な判断は未確認である。
本節では、筑後川から取水する堀川用水の整備と、工事の人員・労務管理に関与したとされる吉松種重について、確認できる記録を整理する。
江戸中期、泰平の世が続き人口が急速に増加すると、幕府や各藩は食糧増産のための「新田開発」を強力に推し進めた。しかし、朝倉地域は深刻な構造的問題を抱えていた。目の前には豊かな水を湛える筑後川が流れているにもかかわらず、平野部の土地が川の水面よりも高い位置にあるため、水を引き込むことが困難だったのである。
そのため、当時の朝倉は少しの日照りで干ばつに襲われ、広大な土地が未開発の松原や荒れ地として放置されていた。
この水利上の構造的課題を解消することは、地域社会における長年の懸案事項であった。
この難題に挑んだのが、下大庭村の庄屋・古賀百工(義重)である。彼は、既存の水路(堀川)の取水口を拡張し、さらに分岐させて広大な台地へ水を送る「新堀川」の開削という大規模な計画を立案した。
古賀百工の測量方法については、木や提灯、水を張った桶を用いたとする伝承がある。
古賀百工の水利計画と、戦国期の両家関係を直接結ぶ史料は確認できない。
本節では、田中吉松家の吉松種重が担ったとされる工事の人員・労務管理と、吉松種熙が提出した水車模型について、確認できる記録を整理する。
1759年に堀川用水の取水口拡張工事が始まった。吉松種重は「井手所御仕調」として人員・労務管理を担ったとされる。
工事には岩盤掘削が含まれ、作業の安全管理と人員配置が課題だったと考えられる。
吉松種重の具体的な職務内容は、今後さらに史料を確認する必要がある。
工事は1760年に完了した。吉松種重は翌1761年に37歳で没したが、工事との因果関係は確認できない。
『吉松系図』には吉松種重の早世と工事への関与を結びつける記述があるが、死因を確認できる資料はない。
吉松種熙は、父・吉松種重の没時に幼少だった。父の工事についてどの程度知っていたかを示す記録は確認できない。
堀川用水から高所の田畑へ水を上げるには、揚水設備が必要だった。
墓碑銘には、吉松種熙が水転車を研究し、模型を郡の役所へ提出したと記される。模型の構造や開発過程の詳細は未確認である。
1789年には堀川用水に三連水車が設置されたとされる。
吉松種重の工事への関与と吉松種熙の水車模型は別の記録に見える。両者の直接的な技術継承は確認できない。
田中吉松家の人物が水利事業と水車模型に関わったとする記録があるが、地域全体への影響の程度は追加検証が必要である。
現在の水車群と吉松種熙の模型との技術的な連続性は確認できていない。
堀川用水は2006年に農林水産省の「疏水百選」に選定された。
種煕は1832年、73歳でこの世を去った。彼の墓石には、その生涯と取り組みが流麗な漢文によって刻まれていた。(現在はすでに墓終い済)
「叟諱種熙本姓大蔵〇本州上座郡田中里人 壯好読書常考器械之制以思供〇国用又学 造水転車屡試灌漑之利 遂自製一小偃車以責郡庁 天保三年十月十六日以病死七十三 没之後〇官命賜金于家賞其精思工巧殊至也」
(訳:翁の忌み名は種熙、本姓は大蔵。壮年の頃より読書を好み、常に器械の仕組みを考え、国の役に立ちたいと願っていた。また学問を修め、水転車(水車)を造って灌漑の利を試みた。ついに自ら一つの模型を製作し、これを郡の役所に提出した。没後、お上より遺族に金一封が下され、その「精思工巧(深く考え抜かれた精密な技術)」が並外れたものであると賞された。)
墓碑銘には、吉松種熙の没後に家へ金一封が下されたと記される。 碑文にある「壯好読書(壮年の頃より読書を好み)」や「常考器械之制(常に機械の仕組みを考え)」という記述は、種煕が思いつきだけで水車を作ったのではなく、確かな学問と論理的思考に基づいた開発であったことを示唆している。
吉松種重と吉松種熙に関する記録を、父子による一体的な事業と評価できるかは未確認である。
明治維新という巨大な社会変革は、断髪や廃刀令といった風俗の変化にとどまらず、家と個人のあり方を根本から問い直すものであった。身分制度の崩壊は、先祖代々の土地に縛られていた人々に対し、「職業選択の自由」という新たな武器と試練を与えた。本節では、かつて堀川用水の難工事と三連水車の発明を成し遂げた「田中吉松家」の末裔たちが、いかにして故郷・田中村を離れ、「医師」という専門職として近代社会の中で立身していったかを考察する。
江戸時代を通じて、田中吉松家は「庄屋」として土地と農民を管理し、技術的対応によって地域の生産力を高めてきた。しかし、明治の到来とともに、彼らはその拠点を放棄するという方針変更を下す。 彼らが選んだ対応は、土地を離れ、「医術」という移住後も用いることのできる専門技能を身につけ、活動地域を広げることであった。
明治中盤以後は、田中村から「吉松」の名は物理的に消滅したが、その系統は近代には専門職に就く者が現れることとなる。
吉松種煕の系統では、博多へ移住して医業に携わった人物が確認される。その一人が、系図を整理したとみられる吉松直江である。彼女は当時としては稀な女医として博多で開業しており、『筑前名家人物志』には以下のような記載がある。
直江 吉松氏ノ女上座郡ノ人上京香川ニツキ直傳ヲ得テ帰ル福岡ニテ大ニ流行ス博多ニ宮本陶斎宗像郡ニ毛利長庵アリ皆高名ナルモ香川直傳ヲ受ケタルハ吉松直江一人ナリ
このように、直江は名家人物として書物に記録が残るほどの人物であったが、その影響は甥である第41代・吉松春渚(しゅんしょ)にも受け継がれた。
吉松春渚は博多で産婦人科医として活動し、仙厓との交流が伝えられる。狐の難産を助けたという説話もあるが、医療技術を直接示す史料ではなく、人物に関する地域伝承として扱う。
この「博多吉松家」の流れは、さらに第42代・知我志(ちかし)の代に至って大阪へと進出し、活動の場を西日本の経済中心地へと広げていった。
一方、代々田中村の庄屋を務めてきた本家筋もまた、定住の地を変える決断を下した。第41代・吉松勘助(かんすけ)は、田中村から東へ約8キロ離れた杷木(はき)の池田へと移住し、医業を開始した。
これを「杷木吉松家」と呼ぶ。 注目すべきは、杷木吉松家における医学習得の変遷が、そのまま日本の医学近代化の歴史と重なっている点である。
第42代・景山(かげやま):伝統的な漢方医として地域医療を担った。
第43代・知太郎(ともたろう):西洋医学の流入に対応し、蘭学を学んだ。
第44代・重實(しげざね):日本の近代化に伴い、長崎で本格的な近代医学を修めた。
彼らは杷木の地に「杏仁堂(きょうにんどう)」という医院を構え、親子三代にわたって地域で診療に携わった。田中吉松家の後世には、杷木で医業に携わった人物が複数確認される。
こうして、田中吉松家の人々は「博多」と「杷木」に分かれ、医師としてそれぞれの地域社会に貢献することで、明治・大正・昭和という政治・社会体制が変化した時代を生き抜いた。
田中吉松家の一部が地域外へ移住した後も、田中地区には墓地が残った。1953年の水害で墓地が被災し、一部の墓碑情報が失われた。
前節では、明治維新以降、田中吉松家の人々が「土地」を離れ、「医師」として博多や杷木へ新天地を求めた過程を述べた。彼らの転身は成功したが、それは同時に、数百年続いた田中村との物理的な結びつきが希薄になることを意味していた。本節では、主を失った故郷の墓地を襲った未曾有の自然災害と、それによって引き起こされた「吉松家の歴史」消滅の危機について考察する。
明治以降、吉松一族が去った後の朝倉・田中地区には、かつて彼らが暮らした屋敷の痕跡として、先祖代々の墓地だけが残されていた。地元の人々はこの場所を「庄屋ん前(しょうやんまえ)」と呼び、竹藪の陰で維持されていた。
しかし、そこに眠る先祖たちの存在を語れる者は、時と共に減りつつあった。一族が不在となった土地において、墓石だけが当時の人名や没年を確認する物証となっていたのである。
1953年(昭和28年)6月下旬、田中村を含む朝倉地域において、大規模な水害が発生した。「昭和28年西日本大水害」である。 梅雨末期の記録的な豪雨により、筑後川が大規模な氾濫を起こした。筑後川の増水により、田中地区も被害を受けた。
田中地区では堤防が決壊し、住宅、田畑、吉松家墓地が被災した。
田中吉松家の墓石は流失したり、厚い泥の下へと深く埋もれてしまった。
当時、墓地の管理を託されていた地元の江藤家もまた、自らの生活再建に追われる中で、荒れ果てた墓地を復旧する余力はなかった。
これは単なる墓石の損壊ではない。かつてこの地で「水」を引き、「技術」で村を救った一族の生きた証が、物理的に消えかけていることを意味する。吉松家の人々はすでに田中村から離れた地にあり、この惨状を知る由もなかった。
かつて吉松種重は、筑後川の水を村へ引くために関与した。しかし約200年後、その同じ川の氾濫によって、彼の墓所が破壊されるという事態は、異なる時期の二つの出来事として記録される。
「物理的な痕跡が消えれば、記憶からも歴史は消えていく」
泥に埋もれた墓石と共に、田中吉松家の歴史は、史料が恒久的に散逸し、検証不可能となる危機に瀕していた。次節で述べる子孫・吉松義典による調査がなければ、文書・墓碑という物理的証拠の面からは、田中吉松家の存在は確認困難な状況にあったと考えられる。
1953年の水害後、吉松義典らが墓地を調査し、1998年以降は吉松隆太郎・吉松道哉らが系図解読を進めた。本節では、その調査経過を整理する。
水害から2年後の1955年8月、杷木吉松家の第45代・吉松義典(よしのり)は、実家の仏壇から一束の古いメモを発見した。それは、昭和6年に33歳の若さで急逝した叔父・吉松種商(たねあき)達が遺した、未完の調査記録であった。
義典は、メモを頼りに田中地区(旧・田中村)を訪れ、上寺にある教念寺で元禄時代からの「過去帳」を確認したことで、吉松家が確かにこの地で代々庄屋を務めていた事実が裏付けられた。
しかし、肝心の墓地は、前述の通り水害の爪痕が深く残る惨状であった。義典は、地元で墓地を管理していた江藤正吉氏の案内で竹藪の裏手へ回り、泥と瓦礫に埋もれた墓石群と対面する。
義典は、墓石の洗浄作業を行ったところ、過去帳にあった「釈浄玄(吉松種重の法名)」の文字や「種方」といった文字が浮かび上がった。これは、明治以降、故郷を離れて久しい子孫が、約90年ぶりに先祖の生きた証を「物理的に」掘り起こし、再確認した瞬間であった。義典のこの行動がなければ、墓地はそのまま廃棄され、場所さえ分からなくなっていた可能性が高い。
その後、義典は1955年、水害で埋もれた田中村の先祖の墓を自力で特定したこの経緯を『吉松家先祖之墓地発見記』に克明に記録した。
この手記は、物理的な証拠と系図を一致させ、一族の歴史を後世へ継承するための重要な基礎資料となった。
義典の発見により田中村に生きた先人達の存在は確認されたが、系図と関連記録の内容はまだ漢文の古文書を解読しなければ確認できない状態であった。時は流れて1997年、舞台は大阪と栃木へと移る。
この時、二人の人物が仲介により協働体制を確立した。 一人は大阪に住む吉松隆太郎。彼は博多吉松家の末裔であり、幕末の女医・吉松直江が書き残した『吉松系図』という巻物を、母との約束を守り50年間も大切に保管していた。
もう一人は栃木に住む吉松道哉。彼は杷木吉松家の末裔であり、兄・義典らが集めた膨大な調査資料(知識)を受け継いでいた。
平川亮一の仲介により、吉松道哉と吉松隆太郎は1998年4月に栃木県矢板市で会い、系図解読の共同作業を始めた。
二人の共同作業は、パソコンやインターネットを使わない、手紙と電話によるアナログな手法で行われた。隆太郎が原稿を書き、道哉へ郵送し、電話で激論を交わす。漢文の解読には知人の松嶋育男氏の協力を仰ぎつつ、直江が残した難解な記述を現代語へと翻訳していった。
そして2001年、一冊の本が完成する。『吉松家系図解読』である。 この本には、古代の神職としての起源から、戦国の動乱、江戸期の治水事業、そして近代の医師としての歩みまで、系図と関連する伝承・調査結果がまとめられた。
昭和の義典によって、水害により埋没した墓石という物理的証拠(モノ)の発掘と、古文書の解読による歴史的経緯(コト)の再構築が行われた。この一連の流れは、単なる家系図の作成作業ではない。
2001年刊行の『吉松家系図解読』は、その後の調査で参照される基礎資料の一つとなった。
前節では、離散した田中吉松家の子孫たちが、物理的な証拠(墓)の破壊を乗り越え、継続的な調査によって一族の系図と関連記録を整理した過程を述べた。一方、本家のルーツである宮野吉松家には、別の形での記録継承の経過があった。それは「移動」ではなく「定住」を選んだ者たちが維持した、荒神祠に関する記録である。本節では、宮野の屋敷に鎮座する荒神祠(こうじんし)が果たした物証としての役割と、現代における現代の調査について考察する。
大阪と栃木で古文書による「系図解読」が進められていた平成の同時期、本家のある朝倉・宮野の地でも、静かに、しかし熱心に歴史の欠片を集め続けていた人物がいた。
その人物の名は、宮野吉松家の末裔・吉松政幸である。彼はアカデミックな研究機関に属さない在地の研究者として、歴史の「現場」で土と共に生きる生活者であった。
彼の家の目前には、江戸時代から続く吉松家の墓地があり、庭の片隅には「荒神様」の石祠(せきし)が鎮座していた。
政幸は、苔むした墓石の文字を丹念に読み解き、今は亡き古老たちが語った伝承をノートに書き留め続けた。これらは後に『政幸資料』と呼ばれ、文献記録とは性格の異なる、地域社会に根ざした口承・伝承を補完する参考となる証言記録となった。
政幸の主な取り組みは、歴史を単なる知識としてではなく、自らの「生活の一部」として慈しみ、維持した点にある。彼が墓石を洗い、その物理的な「場所」を無傷のまま次の世代へと手渡してくれたからこそ、我々は今、歴史の痕跡に触れることができるのである。
2000年、政幸は「荒神様」が鎮座するその屋敷を、自らと同じ宮野吉松家の末裔である別の一家に譲渡した。そして、この屋敷を受け継いだ一家の長男として育ったのが、本稿の筆者(坂田拓也)に該当する。
著者は宮野の荒神祠の建立時期と建立者を確認するため、2024年から系図、墓碑、地域史料の調査を進めた。
紙媒体の記録や口伝による記憶は散逸・風化のリスクが高い一方、石碑に刻まれた文字情報は長期的な保存性に優れており、歴史的証拠としての価値が高い。
荒神祠の刻字は、建立時期と関係者を検討する物証の一つとなった。
本論における吉松家起源の考察に際し、従来の検討では十分に参照されてこなかった「大行事社」という存在を取り上げる必要がある。
明治43年(1910年)に記された「英彦山神社在昔神領内四十八箇所大行事神社安置所在地由緒」によれば、英彦山神領内には48箇所の大行事社が配置されており、その機能は以下の四種に分類されている。
彦山内の重要地点を守護するもの
豊前国内の彦山末の主要山岳を守護するもの
彦山麓の重要地点を守護するもの
彦山神領内の村を守護するもの
大行事社は村境に建立され、英彦山神領を守護する結界として機能していた。現在、福岡県田川郡添田町津野に鎮座する高木神社(旧称・津野峠大行事社)の境内案内板には「弘仁十三年壬寅十一月、彦山開基第四世羅運上人の創建する処にして」と記されており、西暦822年にあたる。弘仁年間(810〜824年)は空海・最澄が活躍し、山岳修験道が全国的に整備された時期であり、英彦山の神領整備もこの時期に本格化したと考えられる。
したがって英彦山の大行事社ネットワークは少なくとも9世紀前半には整備が始まっており、朝倉方面への配置もこれに続く9世紀中葉以降に進んだ可能性が高い。
また東峰村内の小石原・鼓・宝珠山地区に鎮座する高木神社も、明治以前は大行事神社と呼ばれており、英彦山神領の境界守護として機能していた代表的な事例として知られている。
朝倉市長安寺地区に鎮座する朝闇神社が、英彦山神領の境界守護として配置された大行事社の一つであったことは、朝倉地域の複数の歴史記録において確認できる。
また『筑紫史談』第13集(筑紫史談会、大正期刊行)には以下の記述がある。
「蓋し此地、豊前彦山の社領に属せしか、彦山より吉松某なる社人來りて社事を掌りし頃、朝闇神社を改めたる由といふ。」
この記述は、朝闇神社がかつて英彦山社領に属し、英彦山から派遣された吉松某という社人がその管理を担っていたことを伝えている。
なお『筑紫史談』は大正2年(1913年)に発足した筑紫史談会の機関誌であり、大正3年(1914年)から昭和20年(1945年)にかけて90集が刊行された。会員には政治家・官僚・実業家・学者など福岡県の近代史に名を連ねる人物が多く、創刊の辞において「歴史研究の専門家ではない」と明言しているものの、その研究水準は高く、筑前地域の郷土史研究において現在でも必読の資料とされている。ただしその性格上、記述内容については他史料との照合が必要であることを付記しておく。
ここで重要なのは地理的な位置関係である。
朝闇神社が英彦山神領の境界守護(大行事社)であったとすれば、その西側に広がる恵蘇八幡宮の社領との間に明確な境界線が存在したことになる。すなわち朝闇神社は英彦山神領と恵蘇八幡宮社領という異なる性格を持つ二つの神領の境界点に位置していたことになる。
この構造を図式化すると以下のようになる。
朝闇神社(大行事社)より東・英彦山側→英彦山神領
朝闇神社より西・朝倉側→恵蘇八幡宮社領
朝闇神社と恵蘇八幡宮の地理的な近さは確認できるが、同一人物が双方の祭祀に関与したことを示す直接史料はない。
この地理的構造は、本論第二章で論じた「朝倉を開かれた土地として捉える視角」とも整合する。朝倉エリアは単一の宗教勢力の支配下にあったのではなく、複数の宗教的権威が交差する空間であったと理解できる。
この地域の宗教的複雑さを示す史料として、朝閣寺(長安寺)に関する記録も参照する必要がある。
この寺は「朝鞍寺」「朝閣寺」「長安寺」と複数の名称で記録されており、同一の寺院を指すと考えられる。記録によれば朝倉宮の社僧の坊として天台宗の寺院があり、福岡源光院の末寺でもあった。また『安楽寺目録』には「上座郡朝閣寺領勝福寺免田、当宮の根本御領をなすといえども、御家人甲乙の輩、之を押領せしむ」とあり、太宰府の安楽寺(天台宗)がこの土地を自らの所領と主張していたことがわかる。さらに太宰府天満宮の所領目録にも「上座郡朝鞍寺領」の記載が確認される。
加えて「天降山朝閣寺跡」という記述が複数の史料に見られる。「天降山」は、恵蘇八幡宮の起源となった伝承の舞台で、かつて中大兄皇子が朝倉の地で八幡大神の神旗が舞い降りたことから、その地を「朝倉山天降八幡」と名付けられたと伝えられており、これは、英彦山(朝閣寺)と朝倉郷(恵蘇八幡宮)が宗教的なネットワークとして繋がっていた可能性を示唆している。
現在も須川の長安寺には毘沙門堂が残っており、修験道・天台系の信仰が現代まで継続していることが確認できる。
橘広庭宮跡とされる場所の発掘調査では、この長安寺の瓦が出土しており、須川地区が橘広庭宮・長安寺・大行事社という複数の歴史的要素が重なる空間であったことが示されている。
これらの事実は、朝倉エリアが八幡信仰・天台宗・修験道・天満宮信仰という複数の宗教勢力が重層的に存在した空間であったことを示している。
以上の検討を踏まえ、吉松家の起源に関する新たな仮説を提示する。
英彦山が大行事社ネットワークを整備した9世紀前半から中葉にかけて、英彦山から朝倉へ社人が派遣され、境界守護としての大行事社(朝闇神社)の管理者として定着した可能性がある。この社人が「吉松家」であり、後の吉松家の祖先にあたる可能性が考えられる。
その後940年ごろ、大蔵春実が純友の乱を鎮圧し恵蘇八幡宮を整備した際、すでに朝倉に定着し英彦山神領と恵蘇八幡宮社領の双方と接点を持っていた吉松家を総大宮司として取り込んだと考えられる。この時点で吉松家は英彦山系の境界守護者から八幡系の大宮司へと役割が拡大したと解釈できる。
この仮説が成立するとすれば、本論で提示した661年起源説(斉明天皇行幸・卜部氏派遣説)との関係はどう整理されるか。両者は必ずしも排他的ではない。英彦山から来た社人を実態的な起源としつつ、940年以降に恵蘇八幡宮の大宮司として格式を高める過程で、起源を661年の斉明天皇行幸に接続する物語が形成された可能性がある。これは江戸期における系図整備の動機とも整合する。
なお吉松家の系図では10代定政が940年ごろの人物とされている。もし吉松家が9世紀中葉に朝倉に来たとすれば、初代から10代まで約90年という計算になり、一世代あたりの年数として短すぎる。この点については二つの解釈が可能である。
第一に系図の古代部分が後世の整理において圧縮された可能性、第二に661年に朝倉に来た定家という人物の伝承と9世紀に英彦山から来た吉松某という別の人物の伝承が後世に混合された可能性である。
いずれにせよこの矛盾は現時点では解消できず、今後の調査課題として残る。
以上の仮説については以下の点が未確定であり、今後の調査課題として残る。
第一に、英彦山から来た吉松某と系図上の吉松家が同一系統であることを示す直接的な史料が存在しない。同名異族の可能性も排除できない。
第二に、英彦山神領の大行事社管理者が恵蘇八幡宮の大宮司職を兼ねるという制度的な移行が当時の宗教的文脈において可能であったかどうかの検証が必要である。
これらの謎は後世の調査に託したい。
本補論における各史料の出典は以下の通りである。
『筑紫史談 第13集』筑紫史談会、大正6年(1917年)6月刊
『筑前国続風土記』11巻
『英彦山神社在昔神領内四十八箇所大行事神社安置所在地由緒』明治43年(1910年)
高木神社境内案内板(福岡県田川郡添田町津野)
高木神社由緒(福岡県田川郡東峰村)
なお朝闇神社が大行事社の一つであることについては、『筑紫史談 第13集』における記述のほか、朝倉地域の複数の歴史記録においても確認できる。
本書は、吉松家に伝わる複数の内部史料――江戸前期の『種政系図』、江戸後期の『吉松系図』、そして昭和・平成期に編纂された『義典調査メモ』『政幸資料』『吉松家系図解読』などを主軸に構成されている。
これら内部史料の記述については、可能な限り外部史料や史実(斉明天皇の朝倉行幸、大蔵春実の事績、秋月氏の動向、昭和28年大水害など)との照合を試みた。特に古代における卜部氏との関連や、中世の土地支配の実態については、伝承と史実の整合性を慎重に検討し、いくつかの仮説(現地採用説・中央派遣説など)を提示するにとどめた。
今後の課題としては、宮野地区に残る口伝や、散逸した可能性のある恵蘇八幡宮・高木神社(星野氏関連)の古文書などの発掘・調査を通じて、本書の記述をより多角的に検証することが望まれる。
吉松家と秋月氏・古賀氏・星野氏などの関係は複数の史料に見えるが、その関係を一貫した対応方針として説明できるかは検討課題である。
戦国期には秋月氏と婚姻を結び「武力」と「神聖」を補完し合い、安土桃山期の体制転換においては、少弐氏の末裔・古賀氏(行政・外交)や星野家(南部防衛・農地管理)といった「旧エリート一族」たちと盟約を結ぶことで、在地社会における自治システムを構築した。
また、江戸中期には古賀百工の計画を田中吉松家(種重・種煕)が技術と現場指揮で支え、堀川用水と三連水車を実現させた。
吉松家の歴史は一族固有の事例にとどまらず、中世から近世にかけての地方社会が、複数の氏族間の機能的分業ネットワークによって維持・発展してきた可能性を示す事例として、より広い文脈で位置づけられる余地がある。ただしこの普遍化には、九州の他地域における社家・庄屋層との比較研究を通じた検証が必要であり、その課題は今後に委ねられる。
今後、九州の他地域における社家・庄屋層との比較研究を通じて、この知見を相対化・一般化することが課題として残される。
本書では、明治維新以降の吉松家の展開についても詳細に論じた。かつて土地に縛られていた吉松家の人々は、身分制度の崩壊という変化を好機と捉え、「医師」という専門職へと転身することで博多・杷木・大阪へと活動の場を広げた。
一方で、一族が去った故郷・田中村では、昭和28年の西日本大水害によって墓地が壊滅し、物理的な痕跡が失われるという危機に直面した。
水害後には、昭和の吉松義典による墓地発掘、平成の吉松隆太郎・道哉による系図解読、そして令和における著者(坂田拓也)によるデジタルアーカイブ化へと繋がった。
近代以降の系図整理や墓地調査により、移住後も家に関する記録が参照・更新されたことが確認できる。
今回の調査を通じて、私が評価した吉松家の系図を記載する。
また、『吉松系図』は1820年頃に作成されたと推定され、その成立時期の制約上、当時存命中あるいは直後の世代までしか反映しておらず、それ以降の当主については後世の史料によって補う必要があった。
よって、以降の世代について、現存史料(戸籍資料など)および実地調査(墓碑など)をもとに系図を追加した。
この表は、2026年7月15日に提供された更新版の系図整理に基づく公開用の表です。保存している2026年6月論文原稿の世代表記と異なる箇所があります。家伝・系図・墓碑・文献の記述は同じ確度ではないため、表中の「可能性」「候補」「とする」は確定事項として扱いません。
| 代 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|
| 初代 | 吉松 定家 | 朝廷で神祇官として中臣氏に仕えた卜部定家だった可能性がある。 |
| 2代 | 吉松 定明 | — |
| 3代 | 吉松 定秀 | — |
| 4代 | 吉松 定友 | — |
| 5代 | 吉松 定實 | — |
| 6代 | 吉松 定則 | — |
| 7代 | 吉松 定義 | — |
| 8代 | 吉松 定満 | — |
| 9代 | 吉松 定信 | — |
| 10代 | 吉松 定政 | 大蔵春実から免上地の寄進を受け、朝倉郷長となったとする記述。 斉明天皇・天智天皇による恵蘇八幡宮合祭と、老松三所大明神の合祭に関する記述。 |
| 11代 | 吉松 定利 | — |
| 12代 | 吉松 定栄 | — |
| 13代 | 吉松 定次 | — |
| 14代 | 吉松 定経 | — |
| 15代 | 吉松 定代 | — |
| 16代 | 吉松 定宜 | — |
| 17代 | 吉松 定房 | — |
| 18代 | 吉松 定方 | — |
| 19代 | 吉松 定光 | — |
| 20代 | 吉松 定雄 | — |
| 21代 | 吉松 定延 | — |
| 22代 | 吉松 定連 | — |
| 23代 | 吉松 定道 | — |
| 24代 | 吉松 定以 | — |
| 25代 | 吉松 定生 | — |
| 26代 | 吉松 定元 | 娘が秋月種照と婚姻したとする系図上の記述。 |
| 27代 | 吉松 種助 | 秋月種照の次男が養子として吉松家に入ったとする。 本姓は定助で、後に種助へ改名。 官名:式部 |
| 28代 | 吉松 種氏 | 官名:式部 |
| 29代 | 吉松 種義 | 官名:式部 |
| 30代 | 吉松 種秀 | 官名:式部 |
| 31代 | 吉松 種家 | 官名:民部 古賀新左衛門を須川に受け入れた可能性がある。 秋月氏の宮崎移封に従い、子・種良を残して秋月へ移住した可能性がある。 |
| 32代 | 吉松 種良 | 官名:民部 1587年の豊臣秀吉による九州平定期、朝倉の支配構造が変わるなかで家の対応を担ったとする整理。 弟・種栄に宮野村で宮野神社の宮司職を残し、種良自身は子・種仲を連れて田中村へ移住したとする。 |
| 33代 | 吉松 種栄 | 種家の次男だが、兄・種良の猶子だった形跡があるため、実質33代と評価する。 官名:式部 |
| 34代 | 吉松 種定 | 官名:式部仁左エ門 福岡藩の免方役として吉松家を外れ、福岡へ移住したとみられる。 |
| 34代中継 | 吉松 種経 | 官名:左次兵衛 種定の弟と評価する。種定が福岡へ移住し、子・種政が幼かったため、種経が中継として35代を担ったとする整理。 |
| 35代 | 吉松 種政 | 官名:修理 種定の嫡男。 |
| 36代 | 吉松 種次 | 官名:但馬 |
| 37代 | 吉松 種生 | 官名:壱岐 |
| 38代 | 吉松 種晟 | 官名:主殿 明和4年(1767年)没。墓石の刻字で確認できる。没年は子・種徳による荒神鎮座(同年)と一致し、家督継承と荒神鎮座が連動した可能性がある。 |
| 39代 | 吉松 種徳 | 官名:但馬 墓石には「吉松定恒」とあり、晩年は定恒を名乗った可能性がある。 明和4年(1767年)、中宮野で荒神を鎮座したとする。 |
| 40代 | 吉松 種一 | 官名:但馬 男子がおらず、いとこの種昔を養子として受け入れた可能性がある。 |
| 41代 | 吉松 種昔 | 官名:但馬 1777年生、1847年没。種一に子がなかったため、本流後継候補として養子に入った可能性がある。 血縁上は林作の子候補(有力仮説)で、系図上は種一の養子・後継候補として本流に位置づける。 |
| 42代候補 | 吉松◯◯(氏名不明) | 官名:駿河 文献上で存在を確認。種昔の子候補。1853年(嘉永6年)の朝闇神社石祠に「大宮司 吉松駿河正」の名が刻まれる。 墓石は未確認。神職廃止に伴う社会変動のなかで宮野を離れた可能性がある。 |
| 43代候補 | 吉松◯◯(氏名不明) | 官名:但馬 文献上で存在を確認。種昔の孫候補・駿河の子候補。1864年(元治元年)の香椎宮奉幣使行列参加記録に「吉松駿河」「吉松但馬」の名が確認される。 墓石は未確認。 |
| 代 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|
| 39代 | 吉松 林作 | 種徳=定恒の弟候補。1732年生、1800年没。 |
| 40代 | 吉松 和作 | 林作の子候補。戸籍で和助の父と確認。 |
| 41代 | 吉松 和助 | 墓碑に「倉吉父」と明記。 |
| 42代 | 吉松 倉吉 | — |
| 43代 | 吉松 弥一郎 | — |
| 44代 | 吉松 秀光 | 太平洋戦争にて戦死。 |
現在、宮野に住む吉松姓の方々は、戸籍をたどる限り、この宮野傍系の39代・林作の末裔に当たると考えられる。44代・秀光は太平洋戦争でビルマにて戦死し、跡継ぎはいないとされるが、その弟・吉松恭介の子孫が残っている。
| 代 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|
| 33代 | 吉松 種仲 | 宮野・烏集院・田中村の保正。 若くして亡くなる。 |
| 34代 | 吉松 種為 | 田中村保正。 父・種仲が若くして亡くなったため、一時的に祖父・種良が田中村の保正を務め、その後を継いだとする。 |
| 35代 | 吉松 種治 | 田中村保正。 |
| 36代 | 吉松 種真 | 田中村保正。 |
| 37代 | 吉松 種義 | 田中村保正。 |
| 38代 | 吉松 種重 | 田中村庄屋。 |
| 39代 | 吉松 種存 | 田中村庄屋。 |
| 40代 | 吉松 種方 | 田中村庄屋。 |
| 41代 | 吉松 勘助 | 杷木池田へ移住。 |
| 42代 | 吉松 景山 | 杷木で漢方医を開く。 |
| 代 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|
| 39代 | 吉松 種煕 | 福岡へ移住。 若い頃に水車模型を役場に提出し、死後に表彰を受けたとする。 |
| 40代 | 吉松 直江 | 当主ではないが、種煕の娘。『吉松系図』を編纂。 |
| 代 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|
| 34代 | 吉松 種嗣 | 宮野・烏集院村の保正。 |
| 35代 | 吉松 種友 | 宮野・烏集院村の保正。 讒言を受け、筑後へ移住。 |
| 代 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|
| 36代 | 吉松 種親 | 寒水村保正。 種次の弟、または種政の二男の可能性がある。 |
| 37代 | 吉松 種祐 | 寒水村保正。 |
| 38代 | 吉松 種宣 | 寒水村。 |
| 40代 | 吉松 種章 | — |
寒水村吉松家は『吉松系譜』のみに記載がある。『杷木町史』では、36〜37代の頃に該当する吉松種清という人物、および年代不明の吉松久治という人物名も確認できる。
現時点の資料では確認できない事項を以下に整理する。
初代・定家は何者だったのか?
宮野神社の古墳は誰のものなのか?
卜部定澄との関係は?
そもそも種良以前の吉松家は実在し、恵蘇八幡宮の祠官および宮司家だったのか?
恵蘇八幡宮の斉明天皇と天智天皇の合祭は結局いつなのか?
宮野吉松家最後の神官親子・吉松駿河と但馬は誰でお墓はどこに消えたのか?
これらは追加史料が必要な調査課題である。
系図史料には、時期によって祭祀、村役、医療など異なる役割を担った人物が記される。
近世以降には、庄屋・保正、水利事業、医療に関する記録が確認できる。ただし、これらを一貫した家の方針として説明する直接史料はない。
本稿で確認できるのは、異なる時期・家流に祭祀、村落行政、治水、医療、記録整理に関わった人物がいることである。相互の因果関係や継続性は、今後も史料ごとに検証する必要がある。
「吉を待つ」を家名の由来とする説明は家伝であり、命名時期と由来は確認できていない。
本研究は、散在する史料と伝承を体系化した一つの試みにすぎず、今後の史料発掘や比較研究によって修正・補強されるべき点が多く残る。しかし、恵蘇八幡宮の祭祀を担った社家という、これまで研究の空白となっていた領域に光を当てたことで、朝倉地域史の立体的な理解に向けた一つの基礎的知見を提供できたとすれば、本研究の目的は果たされたと言えるだろう。
本論文の作成にあたり、宮野吉松家をはじめとする吉松家の方々、および朝倉地域の関係者の方々から多大なご協力をいただいた。
特に、『吉松家系図解読』を残してくださった故・吉松道哉氏、吉松隆太郎氏、吉松静子氏に深く感謝申し上げる。また、先祖の記録を守り伝えてきた歴代の吉松家の方々、特に吉松種政、吉松直江の労苦に敬意を表したい。
(2026年6月作成)
この論文はESTADIO(エスタディオ)の人文知調査事業の一環として書かれました。
引用方法
研究・地域資料・記事で紹介する際の基本形です。個別の記述を引用する場合は、見出しのリンクもあわせて記録してください。
坂田拓也「朝倉吉松家 歴史アーカイブ」Version 1.0、2026年、https://yoshimatsuhistorysite.vercel.app/、閲覧日:YYYY年MM月DD日。