田中吉松家
種仲 → 種為 → 種治 → 種真 → 種義 → 種重 → 種存 → 種方 → 勘助 → 景山。保正・庄屋から治水、さらに杷木の医療へ。
宮野と田中などの系統、墓碑と戸籍による系図整理を掲載。続柄の推定や未確定事項は元の注記とともに確認できます。
系図では、1587年前後に吉松家の一部が宮野に残り、別の一部が田中へ移ったとされます。その後、田中の系統から杷木・博多などへ移った家があり、宮野側にも本流と傍系が残ったと整理されています。以下では、史料上の呼び方に沿って各系統を分けて示します。
種仲 → 種為 → 種治 → 種真 → 種義 → 種重 → 種存 → 種方 → 勘助 → 景山。保正・庄屋から治水、さらに杷木の医療へ。
種煕の系統。直江による系図整理、春渚らの医療活動を経て、大阪へも展開。
林作 → 和作 → 和助 → 倉吉 → 弥一郎 → 秀光。現代の宮野吉松姓はこの系統の末裔と考えられる。
種親 → 種祐 → 種宣 → 種章。『吉松系譜』を中心に確認されるが、続柄・代数に課題を残す。
種嗣 → 種友。宮野・烏集院の保正を担った後、筑後へ移住したと伝わる。
宮野吉松家墓地の刻字、法名、続柄メモ、戸籍、文献を照合した最新版です。
吉松 種昔は家の位置づけとして本流側に置きます。一方、血縁上は吉松 林作の子で、子のない吉松 種一の後継として本流へ入った可能性を中心仮説とします。
生年差による概算です。
1763年生。吉松 種昔とは生年差が14年です。
1732年生。吉松 種昔とは生年差が45年です。
1749年生。墓碑に「吉松林作妻」とあり、吉松 種昔とは生年差が28年です。
1728年生。吉松 種昔とは生年差が49年です。
吉松 種晟、吉松 種徳=吉松但馬定恒とみられる人物、吉松 伊六、吉松 種一、吉松 種昔、吉松 林作、吉松 和作、吉松 和助、吉松 倉吉など。
吉松 和作が吉松 和助の父であることを戸籍で確認。吉松 和助から長男・吉松 倉吉へ続く関係は、墓碑情報とも整合します。
吉松 種昔の実父、吉松 種一との養子関係、吉松 駿河・吉松 但馬父子の実名・墓所、吉松 林作と吉松 種晟・吉松 種徳の続柄は追加調査が必要です。
破線表示は推定関係です。
墓碑に「吉松和泉種徳惣領」。本来の跡取りとみられますが、幼くして亡くなりました。
本流上の位置と血縁上の推定を同じ線で表さず、別々の仮説として扱います。
種一に子がなかったため、近親の林作家から種昔を迎え、本流の後継としたという整理です。
今後、過去帳や位牌などで実父が確認されれば見直します。
1853年の朝闇神社石祠に「大宮司吉松駿河正」、1864年の記録に吉松駿河・吉松但馬の名が見えます。
幕末・明治期の神職制度再編の中で宮野を離れ、他所で没した可能性があります。
地域で宮野の吉松家を「タジマさん」の親族として認識した口承があります。
整理資料:宮野吉松家墓地刻字メモ、戸籍情報、『吉松系図』『吉松系譜』、朝闇神社石祠、香椎宮奉幣使関係記録、地域聞き取り。今後の確認対象:過去帳、位牌、墓碑裏面、他所墓地、神社関係文書。