朝倉の暮らしをたどる
宮野神社周辺の田園

2027年1月24日 歴史講座 坂田 拓也

秀吉の九州平定と
朝倉の変化

土地と水、人々の仕事をたどる年表

はじめに ↓宮野神社周辺

年代を追って、この地域の暮らしの変化を見ていきます。

日付を確定できない出来事は、時代やおおよその範囲で示しています。

はじめに

01

坂田 拓也と申します。

  • 朝倉人文知と名付けて、人文知調査事業を運営し、人類の歴史や文化を調べています。
  • 人文知調査事業の傍らデザイン事業も行っています。エスタディオという屋号です。
  • 中宮野で暮らしています。母方の血筋が中宮野の吉松家で、地域では吉松くんと呼ばれることもあります。
  • 自分の先祖でもある吉松家の歴史や地域の歴史も調べています。
  • 今日は、秀吉の九州平定を通じて、朝倉の土地・人々の様子がどう変わってきたかをたどります。
出典・補足

講師の活動と、吉松家・中宮野との関わりについての自己紹介。

系図・調査記録の整理を読む

この講演のポイント

02

秀吉の九州平定から、朝倉の変化を考える

  • 1587年までの朝倉はどんな地域だったのか。
  • 1587年、朝倉の支配者が交代し、土地の扱いや地域の家々の仕事が変わった。
  • 武士やその家族が暮らしを立て直し、村の運営を担う人々が地域を支えていった。
  • 江戸時代の水路・水車の整備が、農業や人々の働き方にどのような変化をもたらしたかを見る。
  • 現在の朝倉の暮らしや産業を、こうした歴史とのつながりから考える。
出典・補足

九州平定と、後の水路・水車・産業の発展を年代で区別し、複数の時代にわたる地域の変化として説明する。

系図・調査記録の整理を読む

古代

古墳時代前期

03

宮野の有力者と宮地嶽古墳

  • 宮地嶽前方後円墳は朝倉市宮野にある。全長は約50メートル。
  • 朝倉市は古墳時代前期につくられたと説明している。
  • 大きな墓をつくる人員を集められる、地域の有力者がいたと考えられる。
  • 卑弥呼が治めた邪馬台国を、甘木・朝倉に求める説もある。
  • 朝倉の平塚川添遺跡には、卑弥呼の時代にあたる3世紀の大きな集落があった。
宮野の宮地嶽前方後円墳/朝倉市掲載写真
出典・補足

福津市の同名古墳とは別です。被葬者名は未確定。宮野の吉松家や中臣氏など特定氏族の祖先と結ぶ証拠はありません。 邪馬台国=甘木・朝倉説は朝倉市の親善大使紹介に記載。平塚川添遺跡は市の文化財解説が3世紀の拠点集落の一つとする。これを宮地嶽古墳の被葬者の同定や、卑弥呼の居所の証明とはしない。

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古い埴輪から分かる、地域を越えた交流

  • 宮地嶽古墳から埴輪(土でつくる焼き物)が出土した。
  • 朝倉市は「県内でも最も古いタイプ」と説明している。
  • 埴輪のもとになったのは、吉備(現在の岡山県周辺)で、墓の儀式に使われた大きな筒形の土器。
  • その形が変化し、大和(現在の奈良県)など近畿の古墳で埴輪として使われ、各地へ広がった。
  • 北部九州にも、埴輪の作り方や墓に並べる習慣が伝わった。地域によって取り入れ方には違いがあった。
  • 福岡市の鋤崎古墳では、埴輪の形や作り方が近畿のものに似ており、作り手の交流が考えられている。
  • 宮野の古い埴輪も、地域の有力者がこうした広い葬送文化に関わっていたことを考える手がかりになる。
宮野・須川周辺の遺跡と現在の地形/『上須川古墳群』p.5。黒い星は上須川の調査地点
出典・補足

朝倉市の正確な表現は「県内でも最も古いタイプ」です。文化の広がりを整理したもので、宮野までの移動経路や職人の出自を確定したものではありません。外之隈、下町外畑1号墳、宮地嶽1号墳の首長墓系列を補足できますが、血縁の家系図ではありません。 吉備から近畿・各地への大枠は倉敷市「特殊器台」、北部九州での受容と鋤崎古墳の例は福岡市博物館「ふくおかのはにわ」による。鋤崎の例を宮野の直接の伝播経路の証拠とはしない。

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古代

04

大化の改新の始まり

  • 645年の政変をきっかけに、政治と土地の仕組みを改める動きが始まる。
  • 中央が土地や人々を把握する仕組みを整えていく。
  • 地域の有力者と中央との関係も変わっていく。
出典・補足

一度の改革で全国の実情が全て変わったとは扱いません。古墳時代の首長から後の家の系譜への直接の連続も未確認です。

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古代

05

斉明天皇が朝倉に滞在

  • 斉明天皇が、百済救援のため筑紫へ来る。
  • 『日本書紀』に、朝倉橘広庭宮への滞在が記されている。
  • 吉松家の系図は、この時代に定家が祭りを担ったと伝える。
現在の宮野神社周辺/宮の場所を確定する写真ではありません
出典・補足

宮の正確な場所は未確定です。前期古墳とは数百年の隔たりがあります。吉松家の始祖定家の活動は、この天皇の滞在と結びつく家伝として紹介します。

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古代

平安時代9〜10世紀ごろ

06

土地を守る人々から、武士が登場する

  • 地方では、土地を開き、農業を営む有力な人々が力を持つようになった。
  • 土地や財産をめぐる争いに備え、武器を持ち、一族や仲間を集めて守る人々が現れた。
  • 都や地方で、警護や戦いを仕事とする人々もいた。こうした動きの中から、武士が育っていった。
  • 土地を守る方法は、武力だけではなかった。有力な貴族や寺社の保護を受ける方法もあった。
出典・補足

北本市デジタルアーカイブズの荘園・武士成立の説明を参照。武士の成立には地方の土地経営・武装だけでなく、警護・軍事の職務や朝廷との関係もある。全国的な流れの説明で、朝倉の特定の家の武士化を証明するものではない。

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中世

家伝

07

神社を支える土地と吉松家

  • 吉松家の系図は、大蔵春実が恵蘇八幡宮へ土地を与えたと伝える。
  • 系図では、吉松定政が土地を受け、朝倉地域の管理に関わったとされる。
  • 神領は、祭りや神社の維持を支える土地。
  • 武士や土地を開いた人々には、土地を寺社などへ寄進し、その保護を受けたいという考えもあった。
  • 寄進には、役所から取られる税や負担を免除・軽減してもらい、土地の権利を守る狙いもあった。
  • 寄進後も現地で管理を続け、寄進先へ収穫の一部を納める場合があった。
現在の恵蘇八幡宮
出典・補足

後世の系図に基づく記述です。寄進の年代・範囲・権利の実態は個別の検証が必要です。七百余町を現代の私有地と同じ意味にはしません。 税負担の免除・軽減や保護を求める寄進は、寄進地系荘園の一般的な仕組みとして説明する。神領すべてに同じ権利があったとはせず、10世紀ごろの朝倉の寄進家伝へ後世の仕組みをそのまま当てはめない。

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中世

中世

08

筑後の星野氏と、家が伝えた由緒

  • 星野氏は、筑後の星野(現在の八女市周辺)を中心に活動した武士の家。
  • 家譜は、初代・胤実を後鳥羽天皇の子とし、黒木氏に育てられたという家の由緒を伝える。
  • 妙見信仰は、北極星などの星を敬う信仰。家譜には祈りや、城・家紋の由来が記されている。
  • 家譜には、菊池氏との結婚や南朝側での協力、城と家臣たちの活動が記されている。
現在の宮野・須川付近の地形/中世の支配の境界を示す図ではありません
出典・補足

『星野家譜』の文字起こし資料による。頁は参照PDFのページ番号。元の刊本・写本との照合は残っている。 p.1–8、80、88–92、243。皇胤説は家伝として扱う。

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中世

09

原田氏の敗戦と、土地の支配の変化

  • 大蔵氏の流れをくむ原田氏は、平安時代末に北部九州で力を持っていた。
  • 原田種直は平家方として戦い、源平合戦で平家が敗れると所領を没収された。
  • 没収された所領では、頼朝側が土地を管理する役目を新しく配置していった。
出典・補足

大蔵氏全体が一度に原田姓へ改名したとはせず、大蔵氏の一流が原田氏を名乗ったと説明。原田種直跡への沙汰人配置は身延山大学研究論文(ronso14_35L)に引用される史料を参照。土地所有の全権が現代的意味で幕府に移ったとはしない。

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中世

鎌倉時代初め

10

武藤氏(少弐氏)が北部九州へ進出

  • 頼朝のもとで、武藤資頼が筑前などの守護を務め、北部九州で力を持つようになった。
  • 守護は、幕府から任された地域の軍事・警察の役目。
  • 原田氏の旧領の一部も、武藤氏の勢力を支える土地になったとされる。
  • 武藤氏は大宰府の「少弐」という役職名から、少弐氏とも呼ばれるようになった。
出典・補足

原田種直旧領の給付は武藤系図など後世史料に基づく整理。守護の管轄と個別の所領支配を区別する。原田荘(糸島方面)を朝倉と混同しない。

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中世

・ 二度の元寇

11

元寇で北部九州の武士が戦う

  • 1274年と1281年、元・高麗などの軍が九州へ来襲した。
  • 北部九州をはじめ各地の武士が防衛にあたり、戦いの後には功績に応じた褒賞が問題になった。
  • 星野家譜も、星野氏が二度の戦いに参加したと伝えている。
出典・補足

元寇の大枠と星野氏の個別の戦功を区別。星野家譜OCR本文PDF p.34–65・73–74。戦功記事は原刊本・同時代文書との照合が残る。

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中世

12

幕府内の争いが、少弐兄弟の戦いに広がる

  • 鎌倉で安達泰盛と平頼綱の争いが起きた。これが霜月騒動。
  • 九州にも争いが広がり、少弐経資と弟・景資が対立した。
  • 景資は岩門で敗れて亡くなり、景資側の所領は没収された。
  • 没収された土地は、元寇などで働いた武士への褒賞にも使われた。
出典・補足

みやこ町歴史民俗博物館公開『豊津町史』「少弐経資と景資の合戦」を参照。霜月騒動の九州への波及と惣領・庶子間の対立を扱う。恩賞地配分の個別の地域・受領者は文書照合が必要。

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中世

家譜の記事

13

星野氏が朝倉の土地を与えられたと伝える

  • 星野家譜は、元寇の功績への褒賞として、胤秀に土地が与えられたと記す。
  • 記事には筑前の上座・下座、三奈木など、現在の朝倉につながる地名が出てくる。
  • 家譜は、この土地の授与を1286年の出来事として伝えている。
出典・補足

『星野家譜』OCR本文PDF p.73–74。宛行文面と1286年冬の叙述あり。OCRの定時・業時などは原文字未照合で訂正して原文として掲出しない。文書原本の所在・真正性・範囲を確認したものではない。前の少弐氏没収領がそのまま星野氏に渡ったとする連続性は未確認。

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中世

系図の記事

14

秋月氏と吉松家の養子・名前の関係

  • 系図は、吉松家と秋月氏の結婚・養子の関係を伝える。
  • 1463年の改名記事で、吉松家の名前に使う字が「定」から「種」へ変わったとされる。
  • 名前の字の変化は、秋月氏との関係を考える資料の一つ。
秋月氏の系図
出典・補足

1463年は系図の改名伝承による年代です。記録された生年との不整合があり、個々の年次や血縁を全て実証したものではありません。

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中世

来住年に異説

15

古賀新左衛門の須川への来住

  • 地域紹介は、古賀新左衛門重儀が1554年に宮野菅生へ移ったと伝える。
  • 吉松系図に基づく整理では、天正年間(1573〜1592年)に吉松種家を頼り、須川に土地を得たとされる。
  • 松を植えて平松と名づけた、という地名の伝承がある。
  • 古賀家譜は少弐氏につながる由緒を記す。
古賀氏の来住などを検討する系図/1668年の写し
出典・補足

「古賀氏のまとめ」を反映。1554年説の出典は『古賀家譜下巻参考.pdf』に保存された比良松の地域紹介で、下巻本文ではない。この紹介には吉松家への言及はない。吉松系図の天正年間来住の整理と区別して掲載する。同祖説や本人の触口就任年は未確認。

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中世

16

星野兄弟の討死と一族の離散

  • 八女市は、星野鎭胤(吉実)・鎭元(吉兼)兄弟が高鳥居城で討死したと説明している。
  • 秀吉が九州を平定する1587年の前年にあたる。
  • 家譜によると、吉実の子・胤吉は城を離れて生き残り、旧臣とともに家を継いだ。
出典・補足

『星野家譜』の文字起こし資料による。頁は参照PDFのページ番号。元の刊本・写本との照合は残っている。 p.208–213、222–223。兄弟の討死は八女市「星野氏墓所」と照合。

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戦国末期

前後と、その後

17

秀吉の九州平定と秋月氏の降伏

  • 秀吉が九州へ出兵し、秋月氏は島津方に立って抵抗する。
  • 岩石城など、秋月方の支城にも秀吉方の攻撃が及ぶ。
  • 秋月種実・種長父子が秀吉に降伏する。
  • 楢柴の茶入れを献上したと伝わる。
  • 降伏後、種長は秀吉方として島津攻めに参加する。
  • 秋月氏は日向の財部、現在の宮崎県高鍋町へ移される。
  • 九州平定後、朝倉は秀吉が配置した小早川隆景の支配下に入る。
地域を治めた秋月氏の系図
出典・補足

献上だけで助命が決まったという因果は確定しません。種長は秀吉方として島津攻めにも参加。十石山の伝説は故郷を離れる記憶として補足。降伏と移封を別の段階として説明します。

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吉松家の土地と仕事の変化

  • 後世の系図や縁起は、神社を支える土地や、祭りに使う田が失われたと伝える。
  • 縁起は、以前と同じ規模の祭礼が難しくなったと記す。
  • 宮野には、神社に関わる系統が残る。
  • 田中には、農地や村の運営に関わる系統が見える。
宮野と田中の歩みを伝える系図/1668年の写し
出典・補足

没収地の範囲と手続きは未確定。全ての権利が一日で消えたとしない。最初から計画された完全な分業とも断定しない。明治以後の医業と記録継承は最後に紹介します。

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古賀氏と村の仕事

  • 古賀氏は、須川・比良松の開発や村の運営に関わったと伝えられる。
  • 地域紹介は、古賀家が大庄屋を代々務め、分かれた家も近隣の庄屋を務めたと説明する。
  • 庄屋は村をまとめる役目。大庄屋は複数の村をまとめる役目。
  • 村の仕事には、読み書き・計算・連絡・共同作業の調整が必要だった。
現在の宮野・須川周辺/福岡県教育委員会の調査報告より
出典・補足

来住や開発の時期・範囲は個別の確認が必要です。古賀氏を星野氏の旧家臣とはしません。読み書きや計算の必要性は実務から考えるもので、教育の時期・場所は未確認です。

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戦国末期

〜 家譜の記事

18

胤吉と旧臣が菅生へ移る

  • 家譜によると、胤吉は肥後で隈部家を頼った後、朝倉の菅生へ移ることを決めた。
  • 1587年末に大圓寺を出て、朝倉渡し・菱野村を経由。菅生で1588年の元日を迎えた。
  • 天野の家や、平松の触口役・新左衛門から食べ物や住まいの援助を受けたと記されている。
  • 旧臣の多くは農業などの仕事につき、離れて暮らしながら胤吉を訪ねたと伝える。
現在の宮野・須川周辺/家譜に記された移動経路や居所を確定する図ではありません
出典・補足

『星野家譜』の文字起こし資料による。頁は参照PDFのページ番号。元の刊本・写本との照合は残っている。 p.231–234。年月日は家譜の年号表記。

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戦国末期

〜 家譜の記事

19

菅生で田畑を開く

  • 家譜には、1591年、小早川隆景が胤吉に菅生で田畑を開くことを認めた文面が載っている。
  • その文面は、刀を持つことを許し、胤吉一代は収穫などを納めなくてよい、としている。
  • 続く記事では、1593年春までの田畑の開発や、旧臣・盛実の下平松周辺での開発が語られる。
  • 樋口実長も山田村・恵蘇八幡宮の北側で田畑を開いたと記されている。
出典・補足

『星野家譜』の文字起こし資料による。頁は参照PDFのページ番号。元の刊本・写本との照合は残っている。 p.237–239。1591年文面の宛先は星野右衛門介。「客分郷士」は庄屋と同じ役職ではない。

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江戸時代

20

黒田長政が筑前へ入る

  • 秀吉の平定後、筑前は小早川隆景の支配となる。
  • その後、秀俊(後の秀秋)が所領を引き継ぐ。
  • 1600年、関ヶ原の戦いの後、黒田長政が筑前へ入る。
  • 秋月氏の後、すぐに黒田氏の支配になったわけではない。
出典・補足

小早川隆景、秀俊(後の秀秋)、黒田長政の順序。秀吉の平定直後から黒田氏の時代だったとは扱いません。

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江戸時代

以後

21

福岡城の築城と、地域の土木の仕事

  • 黒田氏の時代、福岡城の築城が始まる。
  • 築城には、石を積み、土地を整え、水を処理する仕事が必要だった。
出典・補足

古賀新左衛門の築城参加という話は、裏付け資料を確認できていません。現在の石垣だけから、その由来や築造年代を確定しません。

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江戸時代

22

田畑を調べ、税の負担を記録する

  • 黒田氏のもとで、筑前の田畑を調べ直す検地が行われる。
  • 検地帳には、田畑の等級・広さ・石高・耕作者などが記される。
  • 石高は、その土地でどれぐらい作物がとれるかを評価した数字で、その年の実収穫量とは違う。
出典・補足

1602年の具体的な項目は、福岡市博物館が紹介する早良郡重留村の検地帳によります。朝倉の特定の田畑の帳面ではありません。毎年の実収穫量と、土地の評価としての石高は分けます。

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江戸時代

家譜の記事

23

星野家と古賀新左衛門の交流

  • 家譜には、胤吉の葬儀に際して新左衛門と息子・八郎右衛門が萬徳寺への宗派の変更を勧めたとある。
  • 同じ年の11月7日、「触口役」であった古賀新左衛門が亡くなったと記されている。
  • 星野家側の樋口実長らが葬送に関わり、八郎右衛門が家を継いだと伝える。
  • 移住後の星野家と、平松の古賀家との交流を伝える記事。
出典・補足

『星野家譜』の文字起こし資料による。頁は参照PDFのページ番号。元の刊本・写本との照合は残っている。 p.240。「同年」は慶長13年(1608)の記事の流れで読む。

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江戸時代

家譜の記事

24

恵蘇へ移った樋口実長

  • 家譜によると、樋口実長は1609年正月、孫・兼実と八幡宮の社殿北側へ移った。
  • 第五巻の筆者一覧には、実長の住所として「山田村恵蘇宿」と記されている。
  • 星野家の旧臣が、朝倉で田畑を開き、暮らしたという家譜の記事。
現在の恵蘇八幡宮/1609年の建物や実長の住居を示す写真ではありません
出典・補足

『星野家譜』の文字起こし資料による。頁は参照PDFのページ番号。元の刊本・写本との照合は残っている。 p.238–239、243–245。1609年移住と1616年筆者署名の年代は区別する。死亡記事の「十三月」はOCRの異常な表記として月日を確定しない。

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江戸時代

江戸時代

25

庄屋・大庄屋として朝倉を支える星野家

  • 朝倉の星野家には、庄屋や大庄屋を務め、地域を支えてきた歴史がある。
  • 庄屋は村をまとめ、大庄屋は複数の村をまとめる役目。
  • 村の人々と役所の間で連絡を取り、年貢や共同作業など、暮らしに関わる仕事を担った。
出典・補足

朝倉の星野家の村役についての説明。具体的な人物名・在任年・担当村は今後史料で照合する。仕事内容は村役一般の説明で、各人物の担当を確定したものではない。胤吉の1591年の客分郷士扱いを庄屋任命と置き換えない。

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江戸時代

26

堀川という大きな水路を整える

  • 1663年、筑後川から水を取る堀川用水が大規模に整備される。
  • 川に水があっても、川面より高い田には自然に水が入らない。
  • 取水口と水路を整え、水を農地へ届ける。
後の1757年に描いた筑後川絵図(部分)/朝倉市教育委員会蔵
出典・補足

古賀百工は堀川の最初の開削者ではありません。取水口の変更や水路の拡張を段階別に説明。古い絵図の表示は原画像の部分で、現代地図に合わせた精密復元ではありません。

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江戸時代

27

吉松種政が系図を書き写す

  • 吉松種政が古い系図を書き写す。
  • 1587年の九州平定から81年後の記録。
  • 書かれた出来事の年代と、写本がつくられた年代を区別する。
  • 古い内容の継承と、後の補足や理解を分けて検討する。
1668年の系図書写
出典・補足

1668年の系図写しと、そこに記された過去の出来事を区別する。古代の由緒、星野氏の役職、秋月氏との血縁などは、別の史料との照合が必要。

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江戸時代

〜

28

川の水を取り込む設備と水路を広げる

  • 古賀百工は下大庭村の庄屋で、水門・堰・水路の拡張に重要な役割を果たす。
  • 1759年に水門を広げ、続いて堰や水路を改める工事が進む。
  • 吉松種重は田中村の庄屋。系図には、堀川の工事に関わる「井手所御仕調」という役目が記されている。
  • 『吉松家系図解読』の著者は、工事の人員や作業をまとめる仕事と考えている。
  • 水が届く地域の農民たちが工事を担い、その村をまとめる庄屋として種重・百工が関わった。
  • 田中村と下大庭村は、堀川から田畑へ水を届けることで利益を受けると考えられる場所にあった。
現在の山田堰の仕組み図/江戸時代の正確な復元ではありません
出典・補足

古賀百工による水門・堰・水路の拡張の説明は朝倉市と山田堰土地改良区の沿革によります。種重の「井手所御仕調」を人員調整とするのは原著者の解釈で、正確な職務は未確認です。 工事は、水が届く地域の農民たちが中心となって担ったとされる。参加村・人数・負担の詳細は未照合。田中村北側の堀川の分岐と下大庭村庄屋百工の役目は朝倉市ふるさと人物誌11を参照。位置から受益を考える説明で、両村の全ての田が同じ時期に水を得たと確定するものではない。

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江戸時代

29

新しい堀川に水が流れる

  • 1764年、新堀川に水が流れるようになる。
  • 水が届きにくかった地域の農地を潤す。
  • 水を入れるだけでなく、余分な水を抜く仕組みも必要。
  • 工事後も、水路の掃除や修理を続ける必要がある。
水を取る場所と周辺を考える絵図/1757年の史料。1764年完成後の姿ではありません
出典・補足

図は現行施設で江戸時代の正確な復元ではありません。水を張るたらい・曲がり尺・提灯による測量の話は山田堰土地改良区の後世の沿革に帰属します。

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江戸時代

頃
25歳で提出と仮定

30

吉松種熙が水車の模型を提出

  • 種熙は1759年ごろに生まれ、1832年に亡くなったと整理されている。
  • 墓碑銘の写しは、書物を読み、道具の仕組みを調べ、水をくみ上げる工夫を繰り返し試したと伝える。
  • 自分で小さな水車をつくり、郡の役所へ提出したと記されている。
絵本『吉松家物語』「種熙の小型模型」のイラスト/模型づくりを描いた想像図。人物の姿や模型の構造を確定する資料ではありません
出典・補足

模型提出を25歳頃と仮定した年代。生年1759年頃に満年齢相当で25年を加え、1784年頃と置く。数え年なら約1年前にずれるため概数表示。墓碑銘の写しには提出年・提出時の年齢の記載はなく、史料による年代推定ではない。三連水車との直接の関係は未確認。

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江戸時代

31

水をくみ上げる水車の記録

  • 1789年には、朝倉の揚水車の存在が記録されている。
  • 揚水車は、流れの力で回り、水路より高い田へ水を持ち上げる。
  • この年は存在を確認できる記録の年。
  • 水車が水をくみ上げる前は、人が桶などを使って堀川の水を高い田へ上げていたと伝えられる。
  • 田に必要な量の水を人力で上げるには、多くの人手と時間がかかった。
  • 流れの力で回る水車は、この水くみの負担を減らした。
現在の三連水車/1789年当時の水車そのものではありません
出典・補足

1789年は存在を確認できる記録の年。現在の三連水車の形が、この年に初めて完成したとまでは確定しません。 桶などによる水くみは、伝えられる作業方法として紹介。朝倉での道具の種類・人数・作業時間の一次記録は未照合。水車の自動回転・高い田への送水は農林水産省の解説による。人手の転用は仕組みからの推定。

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江戸時代

32

山田堰を大きくつくり直す

  • 1790年、古賀百工のもとで山田堰の大改修が行われる。
  • 川から取る水を増やし、農地へ届けることが目的。
  • 長田地区では、水がたまる被害を心配して反対したと国土交通省の解説が伝える。
  • 改修後も、長田の排水を整える工事が続く。
現在の山田堰/農水省『aff』掲載写真(部分)
出典・補足

反対者を悪役にしません。国土交通省の解説は、改修後にも湿抜工事が続いたと記す。新堀川完成から改修まで「30年」という同頁表現には年号との不整合があるため採用しません。

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江戸時代

江戸時代後期

33

農業の変化と、比良松の酒・醤油造り

  • 比良松は、日田往還に面した商業のある町だった。
  • 篠崎の公式沿革は、江戸時代後期に日本酒造りを始めたと説明する。
  • 酒や醤油をつくるには、原料・水・技術・資金・売り先が必要。
  • 農業で売りに回せる米などが増えれば、加工する仕事や商売の原料になる。
  • 水くみの負担が減れば、人々がほかの仕事に使える時間も増える。
  • こうした原料と働く時間の変化は、篠崎の酒造りや篠崎醤油など、地域の商業を支える背景になった可能性がある。
出典・補足

篠崎の公式沿革と朝倉市文化財保存活用地域計画による。篠崎醤油蔵との関係は別途確認が必要です。「米が増えて人手が余ったので創業した」という直接の因果は未確認です。 原料や働く時間の余裕が商業を支えるという説明は経済的な仕組みからの仮説。朝倉の増収量・労働移動・各社への原料供給を示す記録は未確認。

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江戸時代

34

吉松種熙の死去と、没後の褒賞

  • 吉松種熙が1832年に亡くなる。
  • 墓碑銘の写しは、没後に役所から家族へ金一封が贈られたと伝える。
  • 記録は、道具について考え、水車の模型をつくった取り組みをたたえている。
現在の三連水車/種熙の模型を再現したものではありません
出典・補足

1832年は種煕の死去の年で、模型提出の年ではありません。失われた墓碑銘の写しによる記録を使用。没後の家族への褒賞と、三連水車の発明者であることは別です。

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近代・現代

近代

35

家の仕事と暮らす場所が変わる

  • 宮野側は神社の仕事を終え、田中から続く系統には杷木・博多などへ移る歩みがある。
  • 杷木・博多などで医業に関わる人物が現れる。
  • 移住と仕事の変化は、系統ごとに時期や経緯が異なる。
出典・補足

明治の神職制度改革が直接移住や医業を引き起こしたとは断定しない。1953年水害、1955年義典の調査、1998〜2001年道哉・隆太郎の共同調査を補足。近現代の個人情報は出さない。

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近代・現代

36

古賀才平が古賀組を設立

  • 古賀家の一族から生まれた古賀組が、朝倉で建設の仕事を始める。
  • 公式沿革によると、古賀才平が設立し、初めは災害復旧工事を主に担った。
  • その後、橋や鉄道などの工事にも仕事を広げていく。
出典・補足

創業年・創業者・事業は古賀組公式沿革。朝倉古賀家の一族とのつながりが伝えられる。新左衛門・百工から創業者までの全世代の親子関係を確定するものではない。

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近代・現代

37

旧朝倉小学校に25メートルプール

  • 朝倉市は、福岡県で最初の25メートルプールが朝倉小学校にできたと説明する。
  • 後藤均を中心に、村の有志や住民が建設に協力した。
  • 筑後川から堀川へ流した水を、三連水車でくみ上げてプールへ送った。
  • 農業に使う水の仕組みが、子どもたちの水泳にも使われた。
出典・補足

朝倉市ふるさと人物誌40。県内初の範囲は同記事の表現に帰属。プールへの古賀組の施工関与は、市の記事には施工業者名がないため別途確認が必要。

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近代・現代

38

このプールで練習した後藤暢が銀メダル

  • 後藤暢は、旧朝倉小学校のプールで練習した。
  • 1952年のヘルシンキ五輪に、浮羽高校3年生で出場。
  • 男子800メートル自由形リレー(4人で200メートルずつ泳ぐ)で銀メダルを獲得した。
  • 地域の練習場所に加え、家族の指導や本人の努力があった。
出典・補足

朝倉市ふるさと人物誌40。施設の建設だけがメダル獲得の原因だったとは説明しない。

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近代・現代

〜

39

系図と家の記録を調べ直す

  • 1998〜2001年、吉松道哉と吉松隆太郎が共同で調査する。
  • 系図、墓碑、過去帳、地域の記録を組み合わせて調べる。
  • 調査が『吉松家系図解読』につながる。
研究で照らし合わせる史料の一つ/1668年の系図写し
出典・補足

明治の神職制度改革が直接移住や医業を引き起こしたとは断定しない。1953年水害、1955年義典の調査、1998〜2001年道哉・隆太郎の共同調査を補足。近現代の個人情報は出さない。

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近代・現代

現在

40

水車も、地域の仕事も続いている

  • 三連水車は、現在も田へ水を送るために使われる。
  • 朝倉市は、水車を5年ごとに作り替え、技術を受け継ぐと説明している。
  • 篠崎は、現在も酒類や甘酒などの製造・販売を続ける。
現在の三連水車
出典・補足

朝倉市の稼働案内による。全ての江戸時代の木材が残っているという意味ではなく、目的・技術・再製作する仕事の継承です。

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古賀組の工事と朝倉の暮らし

  • 恵蘇宿橋:筑後川を越え、朝倉とうきはを結ぶ。
  • 宮野周辺の農業用の池:水をためて、雨が少ない時期の田畑へ届ける。
  • 各地の河川工事:川岸や堤防などを整え、水害への備えを進める。
  • 旧朝倉小学校のプール:子どもたちが泳ぎを学び、練習する場所を整える。
古賀組の建物とショールーム
出典・補足

古賀組が関わったとされる橋・池・河川などの工事を紹介。施工年・工事名・担当範囲・効果の数値は未確認。水不足の完全解消や水害リスク低下を測定済みとは扱わない。現在のセクションに近現代の事業を概観し、現在施工中という意味にはしない。

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現在も朝倉で暮らし、地域を支える星野氏

  • 現在も朝倉では、多くの星野姓の方々が暮らしている。
  • 地域の仕事や日々の活動を通じて、朝倉の暮らしを支えている。
出典・補足

現在の朝倉での暮らしについての紹介。人数や個別の活動を調査・集計した記述ではない。現在の星野姓の方々すべてを同じ祖先に結びつけるものではない。

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近代・現代

おわりに

41

地域の今を、歴史から考える

  • 地域の歴史は、時代を越えた人々の仕事や選択の積み重ねとしてつながっている。
  • 道・水路・産業・祭りなど、今の地域の特徴には、過去から続く理由がある。
  • 現在の様子だけでは分からず、歴史を調べて初めて説明できることが多い。
出典・補足

講演の結びとしての考え方。全ての現代の現象を歴史だけで説明できるという意味にはしない。

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歴史資料のお話や、仕事のご相談をお寄せください

  • 朝倉人文知では、人類の歴史や文化を調べ、その内容を講演や展示、冊子などで伝えています。
  • ご家庭に古い文書・系図・写真などが残っていましたら、ぜひお話をお聞かせください。
  • 「何の資料か分からない」というものも、地域の歴史を知る手がかりになるかもしれません。
  • 講演や勉強会、歴史・文化の調査などのお仕事も、ご相談いただけるとうれしいです。
  • 身近な資料のお話や、お仕事のご相談が、この調査を続けていく支えになります。
出典・補足

事業紹介は既存のESTADIO人文知調査事業の制作記録に基づく。協力内容や公開範囲は個別に相談する。未提示の寄付先・料金・支援制度は掲載しない。

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